2012年4月6日金曜日

『見狼記 ~神獣 ニホンオオカミ~』

見逃したETV特集、『見狼記 ~神獣 ニホンオオカミ~』、友人が教えてくれた動画で二度も観てしまった。

見えないけれど確かに在るものを追い続け、祈る。奥秩父をはじめ日本に残るオオカミ信仰。人々の信仰心、神道の本来性など考えさせられた。

奥秩父、釜山神社の宮司さん(77歳)が毎月お勤めする「お炊き上げ神事」は、3百年続く。息を切らしながらお櫃を背負って山頂まで登り、祝詞をあげる。その様は誰にも見られてはならない。宮司さんは「宿命」と言ったが、その姿に自然=神と人々を結ぶ神職本来の役割を思った。

そして、集落に残る「オオカミ講」は、交代で小さな祠に「お炊き上げ」をする。古い風習だからやめようという声もあるが、やめた後が怖くて実行できないという。「手を合わせると、願い事が浮んでこない…あれは変なもんだよ。」と、もらすおじいさん。共同体の信仰であるとともに、個人的に素朴な感覚で、親密にカミと関わる。日々の生活に溶け込んでいる。(私が個人的に求める信仰は、このようなところにある気がする。日常性にもとづくどこまでも経験的なもの。「神道」の底に流れているはずの無数の信仰心。)

また、福島県飯館村のオオカミを祀る山津見神社では、原発事故以来、参拝者が激減したが、現在も熱心な信者さんが訪れる。「山津見様が頭から離れたことがなかった」という南相馬からのおばあさん。その場所には、原子力の脅威、自然を支配する近代科学と、オオカミの見えない力、自然への畏怖と信仰心…人間のもつ両側面が同次元で映っている。今、あらためて(ほんとうにあらためて)この一点を、現状をふまえて考えなくてはと思う。神道への信仰心から、どんな言葉が発せられるだろう。