2015年7月15日水曜日

最近の読書から




磯前順一『死者のざわめき 被災地信仰論』
非当事者のそれぞれの語りがもつ可能性と厳しさを感じた。不条理な被災をそれぞれの地域の経験として孤立化させてきたという戦後史からの指摘が重い。慰霊におのずと絡む公的、社会的な問題の複雑さ根深さも、課題として再認識させられた。





石井光太『祈りの現場』
 
対話5は、広島で8歳で被爆した松江カトリック教会の深堀神父。原爆は「神の摂理」によるものとその苦しみも自らの内に受け封印し てきたがけれど、パウロ2世の言葉を機に、65年ぶりに壮絶な体験と人間の罪、過失としての原爆を語り始める。気づくのが遅過ぎたという意識とともに。





栗林輝夫『原子爆弾とキリスト教』
 
一般向けで読みやすい。「広島に飛来したエノラゲイ、長崎を襲ったボックスカーの両爆撃機がテ ニアン島を飛び立つ前、聖職者がその出撃を祝福し…」宗教における倫理、道義というのは時流でこれほどに頼りなく揺れて不確実で、不信が募る。







玄侑宗久、鎌田東二『原子力と宗教』


人は、畏怖や畏敬の念を覚えるとき、生理的には身体感の深層にある感覚が働くという。危機察知能力は「背後感覚」にあるとか。経済の本義や戦後の地域と中央の構造的問題なども頷けたが、(宗教だからこその?)身体感覚に基づいて思考する方向性に深く共感。




高木仁三郎『科学の原理と人間の原理―人間が天の火を盗んだ その火の近くに生命はない』


92年の講演録。「私自身を突き動かしている衝動の一つの中に死者の…私の場合は核の被害者の声をどれだけ自分の声にできるかという意識があります。」心に響いた言葉。




今日マチ子『ぱらいそ』
ほしよりこ『逢沢りく』


理不尽な社会や大人たちの暴走の中で被害を受けながら、自分の世界で 葛藤しつつ、ひたむきに戦う繊細な少女たち。狡さや嘘、罪をもちながらすごく純粋。ラスト、感情が何かと触れあうと、純粋さが昇華していくような。現在と戦時という異なる時を舞台に描いた二冊だけれど、少女の眩しい生はいつの時代も変わらない。