2015年9月5日土曜日

タスマニアの森

タスマニアの森を歩く。数十メートルのユーカリの木、巨大なシダ植物、クスノキ、ツゲ、苔…倒 木も多い。これからの夏、雨が減り苔も少なくなる。フィルムのように薄く透けるFilmy Fanは苔マニア?にとって幻とか。
ユーカリの木は育つのが早いそうで、パルプ用の植林も多く見かけた。寿命は200~250年。それに国立公園への道中には、ホップや林檎、イチゴ畑などが見られる。さくらんぼの佐藤錦も栽培。日本へも輸出してるんだけど現地の人は 高価で食べないとか。


























ポップの栽培

2012.10.12

Ross Bridge

1836年、 囚人がつくった橋。ガイドさんによると終身刑だった看板絵描き、ダニエル・ハーバート氏の設計。この業績により釈放、現地の女性とこの街で挙式し一生を終えたという。現在も教会、家が残る。この橋のデザインがまた興味深い…この橋の装飾、石の彫刻には、ケルト神話の女神、動物、植物が描かれている(!) タスマニアのROSSというこの街、スコットランド移民がとても多かったそう。









道中にみかけた不思議な建造物


 2012.10.11

2015年8月16日日曜日

戦争と戦地の本


この春夏に読んだ戦争に関わる本から少し。



目取真俊 『水滴』 『魂込め』 『短編小説選集3 面影と連れて』

目取真さんの一連の著作。死者と遺された者の魂と身体のつながりが、一体となるほどに強くて、恐ろしく悲しくなる。遺された者は戦後も流れていく世間の時間とは別の次元で、死者と触れあいともに苦しむ。ときに、こちら側へと戻ることができない。これらの語りは、この土地の無数の死者たちと遺された者たちのどこか共通の「記憶」から生まれたように感じる。あるいは、封印され語られなかった「体験談」かもしれない。そして、読むと神話のように強烈に心の底が揺さぶられ、導かれる。人々の信仰が刻まれた神的な自然、海、そして、抱えきれないほどの悲しみを積み重ねた沖縄という土地の磁場の力を感じずにはいられない。





高井有一 『この国の空』
 
今夏、映画化されたのを機に読む。着物と米を交換に行った秩父の村にて、強い日差しの下、川で汗ばんだ白いシャツを洗う場面がとても眩しい。その川辺で母娘が頬ばるお握り、神社で恋人たちが食べるお弁当、日々の釜の白米、麦、豆の割合、蒸しパンの堅さ、畑のト マトの瑞々しさ、服装の布地の種類、女たちの揺れ動く感情と言動が、終戦間近、いつ来るかもしれぬ赤紙や空襲の恐怖とともに細やかに綴られている。けれども、少女から大人の女性への成長、戦時における男女の恋愛、市井の人々の逞しさを描く―、というより日常描写の中で際立つのは、確かに身に迫る恐怖におびえる精神の異常さ、親しき者たちとの関係性をも捩じらせる、人間性を歪めさせる戦時の異常さである。





後藤健二 『ルワンダの祈り』 『もしも学校に行けたら』

戦地で接する子供や家族への優しいまなざしや気遣い、誠実さ、それゆえの温かな信頼関係が文章から察せられる。いずれも児童書。小学生の頃に読んでおけばよかったとまず思った。世界の片隅に生きる子どもが、もう一方の片隅に生きる子どものまるで異なる日常を、知ることができたかもしれない。後藤さんの仕事は悲しいきっかけで知ることとなったが、思いが引き継がれんことを心から願う。あの残酷な事件の記憶のなかでの後藤さんではなく、命がけで成してきた貴い仕事とその姿勢を留めておきたいと思う。

2015年8月11日火曜日

Tシャツ海岸

あり得ない場所にあり得そうなものがたなびいていて、すごいツボだった。ふつうの風景との絶妙なズレ?を体感。靄がかる木々を抜けるとTシャツ。ずしんと響く波音。トドも鹿も立ち寄る海岸。



  
 
 









気仙沼Tシャツ海岸in唐桑半島2015


2015年8月5日水曜日

最近の読書から




磯前順一『死者のざわめき 被災地信仰論』
非当事者のそれぞれの語りがもつ可能性と厳しさを感じた。不条理な被災をそれぞれの地域の経験として孤立化させてきたという戦後史からの指摘が重い。慰霊におのずと絡む公的、社会的な問題の複雑さ根深さも、課題として再認識させられた。





石井光太『祈りの現場』
 
対話5は、広島で8歳で被爆した松江カトリック教会の深堀神父。原爆は「神の摂理」によるものとその苦しみも自らの内に受け封印し てきたがけれど、パウロ2世の言葉を機に、65年ぶりに壮絶な体験と人間の罪、過失としての原爆を語り始める。気づくのが遅過ぎたという意識とともに。





栗林輝夫『原子爆弾とキリスト教』
 
一般向けで読みやすい。「広島に飛来したエノラゲイ、長崎を襲ったボックスカーの両爆撃機がテ ニアン島を飛び立つ前、聖職者がその出撃を祝福し…」宗教における倫理、道義というのは時流でこれほどに頼りなく揺れて不確実で、不信が募る。







玄侑宗久、鎌田東二『原子力と宗教』


人は、畏怖や畏敬の念を覚えるとき、生理的には身体感の深層にある感覚が働くという。危機察知能力は「背後感覚」にあるとか。経済の本義や戦後の地域と中央の構造的問題なども頷けたが、(宗教だからこその?)身体感覚に基づいて思考する方向性に深く共感。




高木仁三郎『科学の原理と人間の原理―人間が天の火を盗んだ その火の近くに生命はない』


92年の講演録。「私自身を突き動かしている衝動の一つの中に死者の…私の場合は核の被害者の声をどれだけ自分の声にできるかという意識があります。」心に響いた言葉。




今日マチ子『ぱらいそ』
ほしよりこ『逢沢りく』


理不尽な社会や大人たちの暴走の中で被害を受けながら、自分の世界で 葛藤しつつ、ひたむきに戦う繊細な少女たち。狡さや嘘、罪をもちながらすごく純粋。ラスト、感情が何かと触れあうと、純粋さが昇華していくような。現在と戦時という異なる時を舞台に描いた二冊だけれど、少女の眩しい生はいつの時代も変わらない。





2015年7月15日水曜日

最近の読書から




磯前順一『死者のざわめき 被災地信仰論』
非当事者のそれぞれの語りがもつ可能性と厳しさを感じた。不条理な被災をそれぞれの地域の経験として孤立化させてきたという戦後史からの指摘が重い。慰霊におのずと絡む公的、社会的な問題の複雑さ根深さも、課題として再認識させられた。





石井光太『祈りの現場』
 
対話5は、広島で8歳で被爆した松江カトリック教会の深堀神父。原爆は「神の摂理」によるものとその苦しみも自らの内に受け封印し てきたがけれど、パウロ2世の言葉を機に、65年ぶりに壮絶な体験と人間の罪、過失としての原爆を語り始める。気づくのが遅過ぎたという意識とともに。





栗林輝夫『原子爆弾とキリスト教』
 
一般向けで読みやすい。「広島に飛来したエノラゲイ、長崎を襲ったボックスカーの両爆撃機がテ ニアン島を飛び立つ前、聖職者がその出撃を祝福し…」宗教における倫理、道義というのは時流でこれほどに頼りなく揺れて不確実で、不信が募る。







玄侑宗久、鎌田東二『原子力と宗教』


人は、畏怖や畏敬の念を覚えるとき、生理的には身体感の深層にある感覚が働くという。危機察知能力は「背後感覚」にあるとか。経済の本義や戦後の地域と中央の構造的問題なども頷けたが、(宗教だからこその?)身体感覚に基づいて思考する方向性に深く共感。




高木仁三郎『科学の原理と人間の原理―人間が天の火を盗んだ その火の近くに生命はない』


92年の講演録。「私自身を突き動かしている衝動の一つの中に死者の…私の場合は核の被害者の声をどれだけ自分の声にできるかという意識があります。」心に響いた言葉。




今日マチ子『ぱらいそ』
ほしよりこ『逢沢りく』


理不尽な社会や大人たちの暴走の中で被害を受けながら、自分の世界で 葛藤しつつ、ひたむきに戦う繊細な少女たち。狡さや嘘、罪をもちながらすごく純粋。ラスト、感情が何かと触れあうと、純粋さが昇華していくような。現在と戦時という異なる時を舞台に描いた二冊だけれど、少女の眩しい生はいつの時代も変わらない。





2015年6月10日水曜日

Huon Pine   



                      2012.10.8 Hobart







Huon Pine の器。
タスマニア州リッチモンドのギャラリーで出会った。Huon Pineはタスマニアの針葉樹。
年輪が幾重も細かくはいっており、木肌がとてもなめらか。そして、購入後、3年たった今も変わらぬ芳香。

すっかり高級材となってしまったHuon Pine かつては捕鯨船の材としても活用されていたけれど、育つのがとても遅く、いつしか伐採禁止になった。油成分を多く含んでいるため剛性も強くて、この木の倒木から作られた器やまな板は、人間の寿命よりも長生きするという
















タスマニア、旅の記憶を少しずつ書きとどめておこう。