2012年7月21日土曜日

「協働社会へのチャレンジ~被災地における社会関係資本を活かす試み~」

7月14日 専修大学で行われたシンポジウムのようす。
昨年第一回めと同様、内容が充実しているのはもとより、現地で活躍されている登壇者の方々の熱意が伝わり、会場の雰囲気もとてもよかった。

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.345705268843804.80737.100002130027055&type=3&l=533907b013





南三陸町、気仙沼市 (FACEBOOKアルバム)


7月18~19日、神道青年会のプログラムで、被災地を訪問。

FACEBOOK上でつくったアルバムをためしに載せてみた。
詳細は後程アップしなければ。 
(写真をクリックすると拡大、コメントが表示されます。)

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.347756921971972.81422.100002130027055&type=1&l=07049d38f9

2012年7月12日木曜日

齋藤茂吉


けだものは 食べもの恋ひて 啼き居たり 何といふやさしさぞこれは  (『赤光』 大正一年) 



先月、『茂吉再生―生誕130周年 齋藤茂吉展―を見たのを機に、歌集をぱらぱらと読む。十代の頃読み、心に残っていた歌人、齋藤茂吉。医者として多忙を極めながら、その日、その瞬間を歌に表現していく生き方―。

『赤光』、『あらたま』、情念、生命―歌の底に流れているイメージは、彼が精神科の医師だったことにも起因するような気がした。人間の精神と向き合う目は、おのれの心の深奥をもじっとみつめ、それを写実することで正常を保ち、生き延びてきたようにさえ思える。隠そうとしても心情が滲み出てくる歌の数々は、ときに痛々しい。生きることの痛みが溢れ出て、観ているほうの痛みと重なっていくような気がした。

そのなかで、3年ものウィーン、ミュンヘンでの留学、ヨーロッパ訪問の歌からは、異国の地での茂吉の胸の高まりが伝わってくる。


空のはて ながき余光たもちつつ 今日より日が アフリカに落つ (大正10年 紅海)

奴隷らも 豪富のひとも かぎりなく 生を愛しみて 此処につどひき
(大正12年 ポンペイ 遺跡を訪ふ)

 
しかし、留学中に実家の脳病院が火事で全焼、多くの死傷者を出す大惨事となった。その後の厳しい再建の道のり…欧州の留学先から送った、書籍数千冊の焼失。


焼けあとに われは立ちたり 日は暮れて 祈りも絶えし 空しさのはて (大正14年 焼けあと)



さらに、その後も続く苦難―戦時の文学者への責任追及。夫人のスキャンダルと別居。30歳下の弟子との恋…諦念と恋情で葛藤する苦悩の日々。老いゆく焦りと哀しみ。病との闘い。世間を離れ、静かで孤独な故郷、東北での療養生活―



わが体机に押しつくるごとくにしてみだれ心をしづめつつ居り  (『暁紅』 昭和十年)

若人の涙のごときかなしみの我にきざすを済ひたまわな  

山なかに心かなしみてわが落とす涙を舐むる獅子さへもなし (『暁紅』昭和十一年) 

とめどなく 心狂ひて 悲しむを いだきて寝し われに聞かしむ (『寒雲』昭和十三年)


―何時でも、そして死の前年まで歌をつくり、衰弱し死にゆくおのれ自身の生を写し続けた(昭和二十八年、71歳で没)。


印象的な写真があった。晩年、故郷、東北の川べりに座り込み、遠くを見つめる横顔と、雪山に立ちすくむ孤独な後姿である。


最上川の 流のうへに 浮かびゆけ 行方なきわれの こころの貧困 (『白き山』昭和二十二年)



展示では、少年時代と老年に描いた動植物のスケッチもあった。素直で穏やかな心、微細な部分にまでいきわたる観察眼による描写―。写実性と主観の表現(「写生」=生を写す)を追求した茂吉の精神が表れていた。そして、茂吉の波乱の人生の末に、少年時代に通じる心の安らぎをみた気がして、なんだかほっとした。



「神奈川近代文学館」―港の見える丘公園を抜けてたどり着く閑静な館。ふらりと散歩するにもよい。遠藤周作、小泉八雲展なども心に迫る充実の内容だった。

2012年7月7日土曜日

三輪山 ~追記(大神神社宝物収蔵庫)


大神神社の宝物収蔵庫には、山の神祭祀遺跡出土のミニチュア土器(土製模造品)、拝殿東方の禁足地出土の子持ち勾玉、狭井河出土の須恵器(横瓶、高坏、はそう、台付長頸壺、提瓶)を展示していて、見ごたえがある。

酒 造道具を模したミニチュア土器のセット(杵、臼、柄杓、案、瓢…)は、『延喜式』の記述から、農耕儀礼や酒造儀礼にかかわる祭祀遺物と考えられる。そして、三輪山の神である大物主の神の酒神としての性格の一端が推測される。

また、須恵器の出土から、三輪山の祭祀を担った太田田根子の伝承と、出生地である大阪府和泉陶邑(すえむら)古窯跡群の関係がこの地において、浮き彫りになる。


大場磐雄 『まつり 考古学から探る日本古代の祭』
古谷毅 「奈良県三輪馬場山ノ神遺跡の祭祀考古学的検討」 ほか参照。




大神神社 二の鳥居
大神神社 拝殿


三輪山 ~山麓からの祈り

狭井(さい)神社―三輪山の登拝口がある―
今年五月、三輪山を登拝した。山そのものが御神体のため、近年まで禁足地だった。現在では、写真撮影、飲食、草花土、石の採取などが禁じられている。

山頂の「奥津磐座(おきついわくら)」は、標高467,1m。狭井神社の登拝口から、途中、禊場もある三光の瀧~中津磐座(なかついわくら)~烏山椒の林~椎・樫の樹林~高宮(こうのみや)神社と続く。片道40分ほど、なだらかな山道を登る。川沿いを清掃する人たちの姿もあり、よく手入れされた美しい自然が残る。

すれ違う「登拝者」の人たちと挨拶を交わし、ふつうの登山さながら。素足のまま黙々と登る人もいれば、友人同士、家族、カップルでおしゃべりしながら楽しげに歩く人たちもいる。奥津磐座では、講の人たちであろう一行が神饌を並べて供え、手を合わせていた。


―かつて古代人は、麓から祈りを捧げた。西山麓の「馬場山の神遺跡」をはじめ、山麓各地で発見された祭祀遺跡が、それを物語る。神道考古学を提唱した大場磐雄の著、『まつり』にもそのことが書かれている。

「古代人はこの神聖なお山にたいして、麓の随所に斎庭をもうけ、この霊を招いて奉斎した」。

―そして仏教の伝来により、山麓から山頂へと、山の祭祀のかたちが変化していく。

「日本の山崇拝の初期にあっては、山麓奉祀が主であり、後世仏教が習合してから山頂に登拝する風習が起こったと考えている…親しく山頂をきわめ、山霊に接するを目的とすることとなった」。
 
その象徴的な例が、日光男体山の祭祀である。栃木県宇都宮市の臼ケ峰という丘に鎮座する二荒山神社は、日光市の男体山を遥拝(ようはい:遠方から神のいる方向へ拝む)する神社でもあるという。一方で、男体山山頂の祭祀遺跡には、多くの仏具が出土している―。


三輪山を登りながら、遥か遠方から拝んだ人たち、麓の磐座からこの山を崇めた人たち、最初に禁足の山に入り、参拝した僧たちのことを思った。徐々に、気軽に土足で踏み入れることが、後ろめたいような畏れおおいような気持ちになっていった。 「親しく山頂をきわめ、山霊に接する…」。どれほどの覚悟や目的があっただろう。

時を経て、祭祀や祈りの形は変わる。人によって信仰の在り方もさまざまだ。ときに私をその場所に埋め込み、何かを求める。一方で、祈りの場そのものを客体化して「観光」する。 「聖地ブーム」はその両側面を含んでいるだろう。

実際、人間の在り方は変われど、多くの霊山や聖地はそのままに存在している。その尊さを思う。せめてその場所に踏み込んだとき、祈りの歴史のなかで、私の立ち位置を自覚しよう。心身を澄まして、古代の人たちへの崇敬の念をこめて。

磐座神社―少彦名の命を祀る。山麓にある辺津(へつ)磐座のひとつ。自然石のみ、社殿はない。