2009年1月17日土曜日

深大寺と湧水~布多天神社

1月12日の祝日、調布市の深大寺に初詣。

















733年(天平5)満功の開山、天台宗、山号は浮岳山。もと法相宗。(「広辞苑」)
天平時代は水神と関係のある深沙大王の霊地とされていて、深大寺の名の由来になっている。










平成10年、市指定有形文化財(建造物)の山門。 







深大寺は慶応元(1865)年の大火により建物のほとんどが失われ、明治以降に再建。山門は、焼失をのがれた。元禄8(1695)年の棟札が残り、建立年代が明らかに。建物は、一間薬 医門(本柱の後ろに控え柱2本を建て、切妻屋根をかけた門)、屋根は切妻造、茅葺。この門は和様を主調 とするが、禅宗様を併用して、一部に大仏様も巧みに取り入れている。(調布市HPより)








3月3日・4日、
厄除け元三大師祭とだる ま市が行われるらしい。















境内の湧水










深大寺の湧水源は元三大師堂の裏にある崖下からで、境内を潤し山門脇の瀧口から流れ落ち、参道に沿った長い水路をせせらぎとなって流れている。この水路の水は飲むことができないが、境内の井戸水は飲むことができる。(平松純平「東京の湧水」のんぶる舎)

深大寺一体は、武蔵野台地に浸透した地下水が至る所に湧き出していて、先史時代の遺跡が多数発見されている。野川とハケ(国分寺崖線)沿いを散策すると東京の水文化の一部がみえてくる。ちなみに深大寺近くの大沢地区や三鷹の天文台の遺跡もこの水文化と関わるだろう。

この辺の湧き水巡りを昨年して写真を撮ったけれど何だか分からないものになってしまった。先の本はとても写真が綺麗で湧き水の状況もよくわかる。









境内から神代植物公園側に登ったところに咲いていた。冬牡丹。









規模の大きな植木屋が境内周辺にいくつかあった。榊の苗木を探したがみつからなかった。









元三大師の「降魔札」と「利生札」。










「角大師・豆大師」の護符らしい。入口の外と表に張るのだが、部屋の本棚に神社のお札と並べて置いてみた。

かつて元三大師が高野山で護摩修行をおこなっていた時、その真剣な表情が悪人には鬼の 姿に見えて、怖くなって逃げ出した、降魔札の図像はその鬼に化した大師の姿を写したものだといわれている。

ま た、釈尊は修行中に降魔 や女人といった妨害や誘惑に打ち勝って、悟りを開いたと伝えられ、これを「降魔成道」というが、その故事にちなんだ札だともいわれている。

一方、利生札は大師の姿を豆粒のようにたくさん並べて刷った札なので、豆大師と呼ばれている。(柏書房、長沢利明さんの連載ページより)









布多天神社











夕方近くに布多天神でもお参り。札所をみる。どこの神社に行ってもそうなのだが、御守りや御札の値段や御守り袋のデザイン並べ方までついつい意識してみてしまう。

健康に一年過ごせますように。

2009年1月16日金曜日

湯西川~湯殿山神社・高房神社~

昨年12月、栃木県日光市(旧栗山村)湯西川にて参拝した神社の記録。


















温泉街の入口、平家落人民俗資料館近くにある、湯殿山神社。枯葉を踏みしめながら立ち並ぶ木の間を進むと、ゆるい傾斜上に小さな社がある。ガイドブック情報だが、天正年間に建立。月山、湯殿山、羽黒山の出羽三山の流れをくみ、羽黒山から土を移して湯の神を勧請したそう。湯西川集落の総鎮守。8月の例大祭にはこの地に古くから伝わる獅子舞が奉納される。獅子舞の乱舞が見ものとあるが、人気もないこの場所で人々が賑わい祭りが行われる様は想像できなかった。



















1キロちょっと離れたところにある高房神社。木々の中ひっそりと奥まった所にある。こちらもガイドブック情報。湯西川の上流と下流に同名の神社があるが、いずれも湯西川平家一門の守護神として高房大神諏訪大神が祀られている。



















建久年間(1190~99)に創建された本殿には、獅子や鷹の彫刻が施されている。「栗山村指定有形民俗文化財」。何気なく建てられているのに、本当に見事な彫刻。無人の神社でも土地の人たちがしっかりと整備し保存しているさまが伺える。



















旧栗山村の入口付近。日光市に併合した影響か、道路やダムなどの整備が進んでいた。新築の家も何軒か立ち並んでいて、家の庭に真新しい祠をいくつかみた。そして新興の集落、整備中の道路沿いに「若宮神社」という新築の神社を発見。尋ねる土地の人も見かけなかったので詳細は不明。白く新しい鳥居が印象的だった。



















時代の流れで土地の様相が変わり、神社も馴染みの外観を失ったとしても、土地の人々にとって氏神様は当然のように生活の傍らに存在している。そして信仰心は変わらずに地域共同体の中で受け継がれていくのだと思った。観光の要素を全く持たないこのような神社から、日本人と神社、神道の在り方について色々考えられる気がする。

2009年1月15日木曜日

「情報化社会」、縁を結ぶ場所。

先週末、東京在住の友人が1歳2ヶ月になる息子のソウちゃんと旦那様とともに初詣に来てくれた。彼女は大学時代の友人で、結婚前たびたび助勤にきてくれて、SEの専門技を生かし神社のあれこれをシステム化してくれた。父も私もアナログ人間なのでとても助かった。神社は当然PC完備なのだが、父はとくに疎くてキーボードはひらがな打ちだし、暇つぶしにポーカーをやるか、釣り情報を見るくらい。御祈祷の予約をHPで可能にしたのは画期的だと思った。

私は私で大学に「神道と情報化」という授業があるのだが、リンク集やHPを作るという課題に悪戦苦闘。本当に苦しい。でも授業で扱う内容は、宗教におけるインターネットの問題点や可能性、「神道と情報化」というテーマそのものの重要性を認識するきっかけになった。とくに「情報化社会」の再考という課題ができた。

10年近く前に「情報化社会と人間の問題」という卒業論文を書いたのだが、恩師の指摘のとおり「情報化社会」というものを捉えきれていなかった。細かな内容も忘れてしまうほど拙いものだったが確か、読みこなしていないハーバーマスやら書籍を駆使してコミュニケーションを軸に書いた気がする。「情報化」とか「グローバル化」とか言葉だけを安易に使わず、現状を捉えそれをあくまで表現する語として充実させる必要がある。そのことは、神職に就く身として課題だし念頭に置きながら、情報を受け入れ発信するという実践をしていかなくてはと思う。

現代社会で良い方向を探るとするなら、「変化の兆候を見極めること」であり、それは社会についても文学や言葉に関してもだ、と今読んでいる吉本隆明さんの本にあって、怠けずやろうと思った。

その友人の結婚奉告祭は、御親族と私ともうひとりの友人が見守る中、旦那様にいたったら何のいわれもないこんなに小さな神社で父上の祝詞で行った。でもささやかで暖かでとても感動した。私の人生においても忘れ難い日になった。そして御出産。保育器の中にいるソウちゃんは本当に小さくて不思議な生き物みたいに見えた。

ソウちゃんはお腹にいるときも初宮参りのときも神社に来てくれた。そして歩けるようになったばかりの彼が、社務所の中や境内を元気にちょこちょこと遊びまわっていた。いつもの境内の風景も彼がいることで違って見えた。彼にとっても特別な場所になるのだろうかと、ふと思った。彼の成長と共に様々な形で迎える場所として神社は在り続ける。

そういえば年末年始の助勤で来てくれた近所の大学生は、幼い時からこの神社で遊んでいたと言っていた。祭りのときなどは特に、マナーの悪い子供の集団に嫌気がさしてしまうこともあるけれど、彼らが大人になった時、近所の神社を特別な場所として支えていくのかもしれない。

幼い頃、私にとって神社は身近な場所だった。中宮詞二荒山神社は、もっぱら父親の「職場」だった。年末に雪の中、父親にお重や着替えを持って行った。隣にあった幼稚園に通っていたので私たち園児はよくお参りに行った。白衣姿の父に見張られてるみたいな気がしたり。だが幼稚園では毎朝、御扉を開け「二荒山の大神よ守りたまえ」と手を合わせる。神様の存在をいつも感じていた気がする。

8歳で越した日光市山内の家の隣には、無人のほとんど参拝者もいない草がぼうぼう生えてしまっている小さな神社があって、探し物が見つからなかったり、体育でできない技があるとよくお参りに行っていた。神様にお願いをした。子供社会でのささやかなでも重大な悩みを神様に託していた。誰も来ないその場所で一人遊びもよくした。今思えば、大人になってからよりもっと純粋に神様を信頼していた。それから、神様と向き合い語りかけることで内的言葉を育てた気がする。「内心の言葉を主体として自己と問答すること」、言葉の本質にも向き合う、そういう貴重なときを神社という特別な場所で過ごしていたかもしれない。

そして、人間同士、土地と人間、神と人間とを結びつける、コミュニテケーションの場所としての神社、神社という場所があることで足を運び、集まり、続いていく縁。社会が変化してもこのような縁というものは変化がないようにも思う。

助勤にきていた妹がパンを焼き、父母も迎える。そんななかソウちゃんは、気を引こうと躍起になる私たち姉妹には全く興味を示さないのに、父母にはすぐなついてしまう。大人に話しかけるみたいに赤子に接する父上が面白かった。そして御夫婦の動きや表情は息子さんへの愛情に満ちていて私はまたまた感動してしまうのだった。

吉本隆明「貧困と思想」青土社

2009年1月11日日曜日

筑紫哲也さん。伝わる言葉。

3日くらい前、電車を2回も降り過ごしてしまった。決まって授業開始30分前には校舎に着いているのに開始1,2分前に走り込む。さすがに電話を一本入れたし特に授業準備も要らなかったので難は逃れたが、こんなことはなかったので驚いた。

筑 紫哲也さんのことを考えていた。一度、学部生のときに大学に来て話を聞く機会があった。ホワイトボードに三角形を書き、頂点に情報、支える部分に情報につい て思考する能力がある、現代では情報に溢れこの関係が逆になっているという、基本的な話をしていた。当時は新聞記者になりたかったので、メモをとりながら 熱心に聞いた。浪人時代にテレビはまるで観なかったが、筑紫さんの「ニュース23」だけは観ていて「多事争論」を頭の中で反復していた。テレビ業界に筑紫 さんがいて、色々批判されてはいても、周囲から支持されているということで安心感があった。マスコミは筑紫さん亡き後どうなってしまうんだろう、と個人的 だけれど思う。

前の晩に「WEB多事争論」を観た。病気 が進行して帽子を被った筑紫さんが、病院か何処かの屋上で、時おり例の柔らかな笑顔をみせながら「この国は癌に侵されている」という話をする。世代でパイ を分け合うという政治の基本的な議論が成り立っていない、全く関係のないところにパイが行ってしまっている。例えば教育費にも社会福祉や医療費にも行かず に、無駄な道路やらに税金が流出している、未来にも過去にも投資されていない。そんなような話だ。観るのは2度目だが、ずしりときた。表情も声のトーンも お元気な頃のままで鋭くて力強い。本当のところは知らないけれど、筑紫さんはまだ世界を見続けて発言したかっただろうし、そう願うので心が痛む。

追 悼の特集は初めて観た。藤原帰一さん、土井たか子さん、小澤征璽さん、石川さゆりさんの話が印象に残った。藤原さんは、筑紫さんがオバマ氏の大統領選での 勝利を知ってから死んだのか気にしていた。筑紫さんはここ数年のアメリカを悲しんでいたと。そしてオバマ氏を評価し期待していたが、アメリカが彼を受け入 れるとは思っていなかったという話だった。

石川さゆりさんは、彼女の歌うような声のトーンに話が情緒的に響くのかもしれないけれど、筑紫さんは本当に人の話 をよく聞くと言っていた。やはり優しさなんだと思う。それから複数の人の発言にもあって私もそこだと思ったのだが、筑紫さんは品がいいということだ。怒りが内に あっても冷静に静かに発言をする。芸術や音楽を理解し愛していたことにも関係あるのだろう。それはとても貴重なことだと思う。

当然のことで、人柄あってこそ言葉に説得力がある。今まで何度も感じた事があるけれど、いくら緻密に完成されて的確でもっともな文章を書いていても、人柄が伴わなければ完成された論だけがあって説得力を持って響いてこない。一瞬圧倒されるのだけど。

こ こ2年くらい機会があって西田哲学の研究者、小坂国継先生の講義を受けた。現代社会に対して根本的なところに問題意識を持っていて、強い怒りや思想を追求する情熱をもっている のが伝わるのだが、あくまで穏やかで謙虚で品がある。拙い質問にもじっくり耳を傾けている。機会があれば講義内容をまとめたいのだけれど、先生の言葉には伝える力があると思う。

私は怒りや感情の高揚に任せて一気にまくし立ててしまう。夢中で話していると、人の話をじっくり聞くこに意識が向かない。意識していきたいと思った。

近 年は、影響を受けた人たちが亡くなってしまう。河合隼雄さんや加藤周一さんが亡くなった時もとてもショックだった。加藤周一さんは一度だけ、10年近く前 になるだろうが講演を聴いた。内容は忘れてしまったが腰を曲げてよたよたとマイクまで歩いてきたのに、話し始めると熱を帯び、制限時間を告げにくる人を数 回、手で制しながら勢いよくしゃべり続ける姿を強烈に覚えている。そういえば先日NHKで、1968年の出来事と「言葉と戦車」の論稿を軸に加藤さんの特集をしていてとても興味深かった。

1945年や1968年など時代の転換期を体験して、真剣に思考し言葉にしてきた人たちがいて、伝えなくてはとすごいパワーで語りかけてくる。

世代交代ができるのか、と思う。

2009年1月9日金曜日

「現在化された未来」、残りの冬期講習。

雪の予報は外れて神奈川県は冷たい雨。出勤中に養老孟司さんの文章を読み、ああと思った。私のことだと。「現在」とは手帳に書いた予定、予定され決めてしまった未来である、こうすればああなると決められてしまったところで、偶然性に満ちた未知なる未来は現在になってしまう。そして我々は「先のことを決めなければ動かないという困った癖」がついてしまったと。

一月のカレンダーは隙間無く埋められている。来年の仕事も大学の予定もだいたいは決まっている。それをこなしていくだけという安心感がどこかにあるのかもしれない。同時にこの感覚は一週間の予定を確認する時と同様に味気ない。だが実際には当然、数々の偶然事、予測できないことが日常には起こっていて喜びはたいていそこにある。なのでその感覚には敏感にならないようにと最近よく思っていた。

短期的にも目標設定が常にないと動かない、そういう人間になっていたなと思う。こなすことで進んでいた。ああすればこうなる、そして一日、一週間が過ぎる、と。まさに未来を現在化していた。神職につくという明確な目標があるから、現在の生活に道筋があって内容も構成されていて、動いている。

そういえば、「過去も未来も現在だと考えている」と、以前ある友人が言っていた。そのときは首をかしげたけれど今ならいろんな意味で解釈ができる、次回その真意を聞いて話し合ってみよう。

私自身が、そういったつまらない感覚を持つことで、目的意識化された社会を形成する一分子になっているのだと思う。塾講師という仕事も単に学問の基礎知識を提供するだけでなく、ものすごくわずかでも社会形成の一端を担っているように思う。養老さんは、全てを現在化してしまうそういう社会で割を食うのは子供だと言っていた。子供の財産は漠然とした、決まっていない未来である。

そんなことを考えながら学習塾の勤務。この3日間での仕事は冬期講習のフォローである。欠席した子供にその分の授業の穴埋めをする。今日はとくにややこしくて、ひとつの教室で左右のホワイトボードを使い分けながら、小中学生の英検、国語、英語と5,6種類入り乱れて授業をした。おもに演習をやらせて交互に解説や採点をすればよいのだが、あちこちで先生、先生と呼んでくる。これは不可能だと思い「先生は阿呆ですから一気にたくさんのお話は理解できません。」と宣言して、こちらのペースで事を運んだ。そうすると子供も大人しくペースに乗ってきてくれる。焦ることはないのだじっくりやろう、と私自身に言い聞かせるこの感じが伝染すればよいと思った。イライラしたりせず。

それから授業についていけない子供の補講。該当する子供に声をかけ、内容も自由にやっていいという、教室長からありがたい支持をいただいた。3日間3時間ずつ。呼ばれた子供は災難だが英語の猛特訓。野球少年とサッカー少年、3人。こんなに勉強したことはないと言うほどに、毎日、英語の基礎の基礎を演習で繰り返す。悪態をつきながらも、何枚ものプリントと悪戦苦闘。最終のチェックテストでは当然、確実に能力が上がっていた。よくやったと心から思ったので、一箱ずつキットカットを買ってあげた。「またやって」との声に、もうたくさんだと言ってしまったが、互いに充実していたのだと思う。

この社会の枠組みの中で、こんな仕事を通して日常の彼らに接していると、枠組みを変えるというよりも、その枠組みのなかでいかに彼らに喜びや楽しさを与えられるか、ということに力を注いでしまう。養老さんのいう時間泥棒の話に気づき考えられる大人に育つかどうか、こんな社会を変えようという気になるかどうかは、全く別のところで鍛えてくれということになってしまう。本質的な思考はどうやって得られるのか、社会を変えるというのはどの次元なのか、大学で社会科学を学んでいたときよりも、最近は自分の立場なりを前提に、もっと現実に照らして考えてしまう。

ちなみに養老さんの本は「かけがえのないもの」。仕事帰りの本屋で衝動買いした。