2009年1月15日木曜日

「情報化社会」、縁を結ぶ場所。

先週末、東京在住の友人が1歳2ヶ月になる息子のソウちゃんと旦那様とともに初詣に来てくれた。彼女は大学時代の友人で、結婚前たびたび助勤にきてくれて、SEの専門技を生かし神社のあれこれをシステム化してくれた。父も私もアナログ人間なのでとても助かった。神社は当然PC完備なのだが、父はとくに疎くてキーボードはひらがな打ちだし、暇つぶしにポーカーをやるか、釣り情報を見るくらい。御祈祷の予約をHPで可能にしたのは画期的だと思った。

私は私で大学に「神道と情報化」という授業があるのだが、リンク集やHPを作るという課題に悪戦苦闘。本当に苦しい。でも授業で扱う内容は、宗教におけるインターネットの問題点や可能性、「神道と情報化」というテーマそのものの重要性を認識するきっかけになった。とくに「情報化社会」の再考という課題ができた。

10年近く前に「情報化社会と人間の問題」という卒業論文を書いたのだが、恩師の指摘のとおり「情報化社会」というものを捉えきれていなかった。細かな内容も忘れてしまうほど拙いものだったが確か、読みこなしていないハーバーマスやら書籍を駆使してコミュニケーションを軸に書いた気がする。「情報化」とか「グローバル化」とか言葉だけを安易に使わず、現状を捉えそれをあくまで表現する語として充実させる必要がある。そのことは、神職に就く身として課題だし念頭に置きながら、情報を受け入れ発信するという実践をしていかなくてはと思う。

現代社会で良い方向を探るとするなら、「変化の兆候を見極めること」であり、それは社会についても文学や言葉に関してもだ、と今読んでいる吉本隆明さんの本にあって、怠けずやろうと思った。

その友人の結婚奉告祭は、御親族と私ともうひとりの友人が見守る中、旦那様にいたったら何のいわれもないこんなに小さな神社で父上の祝詞で行った。でもささやかで暖かでとても感動した。私の人生においても忘れ難い日になった。そして御出産。保育器の中にいるソウちゃんは本当に小さくて不思議な生き物みたいに見えた。

ソウちゃんはお腹にいるときも初宮参りのときも神社に来てくれた。そして歩けるようになったばかりの彼が、社務所の中や境内を元気にちょこちょこと遊びまわっていた。いつもの境内の風景も彼がいることで違って見えた。彼にとっても特別な場所になるのだろうかと、ふと思った。彼の成長と共に様々な形で迎える場所として神社は在り続ける。

そういえば年末年始の助勤で来てくれた近所の大学生は、幼い時からこの神社で遊んでいたと言っていた。祭りのときなどは特に、マナーの悪い子供の集団に嫌気がさしてしまうこともあるけれど、彼らが大人になった時、近所の神社を特別な場所として支えていくのかもしれない。

幼い頃、私にとって神社は身近な場所だった。中宮詞二荒山神社は、もっぱら父親の「職場」だった。年末に雪の中、父親にお重や着替えを持って行った。隣にあった幼稚園に通っていたので私たち園児はよくお参りに行った。白衣姿の父に見張られてるみたいな気がしたり。だが幼稚園では毎朝、御扉を開け「二荒山の大神よ守りたまえ」と手を合わせる。神様の存在をいつも感じていた気がする。

8歳で越した日光市山内の家の隣には、無人のほとんど参拝者もいない草がぼうぼう生えてしまっている小さな神社があって、探し物が見つからなかったり、体育でできない技があるとよくお参りに行っていた。神様にお願いをした。子供社会でのささやかなでも重大な悩みを神様に託していた。誰も来ないその場所で一人遊びもよくした。今思えば、大人になってからよりもっと純粋に神様を信頼していた。それから、神様と向き合い語りかけることで内的言葉を育てた気がする。「内心の言葉を主体として自己と問答すること」、言葉の本質にも向き合う、そういう貴重なときを神社という特別な場所で過ごしていたかもしれない。

そして、人間同士、土地と人間、神と人間とを結びつける、コミュニテケーションの場所としての神社、神社という場所があることで足を運び、集まり、続いていく縁。社会が変化してもこのような縁というものは変化がないようにも思う。

助勤にきていた妹がパンを焼き、父母も迎える。そんななかソウちゃんは、気を引こうと躍起になる私たち姉妹には全く興味を示さないのに、父母にはすぐなついてしまう。大人に話しかけるみたいに赤子に接する父上が面白かった。そして御夫婦の動きや表情は息子さんへの愛情に満ちていて私はまたまた感動してしまうのだった。

吉本隆明「貧困と思想」青土社

2 件のコメント:

  1. こちらこそ、毎度毎度、素敵な思い出をありがとう、とお礼を申し上げたいです。
    これからも、よろしくね。

    子どもを育てていく上で、なんらかの「神」の存在を、小さい頃に実感していける環境がやはり必要なんじゃないか、と思うので、このご縁は、大切にしていきたいな、とおもうのです。

    物心着くまで、おかあさんが、子どもの中にとって大きな「神」的な位置をしめるのだろうけど、だんだん母と離れ、一人で考えることが多くなったときに、特に、自然の中に、神の存在を思ってくれれば、悩むこと辛いことがあってものりこえられるものかとおもう。
    頬を撫でる風から、天上から射す光から、何か神々しいものを肌で純粋に感じられる子に育って欲しい。

    折々、そちらに伺って、家族でそういう空気を味わっていきたいです。

    ソウちゃんも、神社の御札に、「パチパチね」というと、パチパチしておがんでますよ 笑

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  2. 目に見える世界、人間のいう現実世界を超えた世界があることを実感していたいと思います。生死はいつも共存していて。過去の人たちとも何処かでつながっている。その中で自分自身の位置を捉えたり、社会の在り方を考えたいと思っているよ。

    それゆえに日常の些細なことをおざなりに考えるのではなくてより真剣に向き合える気もするよね。

    でも、信じているけど実際に経験的には分かっていなかったり。そこで信じるというのはどういうことかっていうことになるけれど。神様の存在を心の中で「信じる」と言うのと、実感するのとでは違うものね。

    でもきっとある、という確信は持ち続けたいし、そういう人が多くなればいいのに。

    自然界はそんなことを考えるととても本質的に思います。自然を本当に実感していない思想家の言うことは信用できなかったりするもの。

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