2009年3月28日土曜日

八雲立つ風土記の丘

3月21日、松江から八雲行きのバスで約20分。八雲立つ風土記の丘に行く。

この風土記の丘、意宇(おう)平野は、古代出雲の国づくりの中心地だったところで、周辺には幾つもの古墳が点在し、出雲国府跡、出雲国分寺跡がある。風土記の丘学習館には、無料のレンタサイクルがあって、敷地内や周辺の古墳をまわることができる。

敷地内にある岡田山1号墳


横穴式石室を入口からのぞくことができる。
銘文入円頭太刀、鏡、馬具などの副葬品が出土したとあった。











展示学習館では、子持壺型須恵器に興味がわいた。山陰地域のみ出土している。館にあるのは脚付きの須恵器で、一見すると円筒埴輪の上部に小型の壺が付いており、埴輪の一種のように思える。古墳の前庭部などで出土するというし、なぜ埴輪ではないのかと不思議だった。

だが、底部がある子持壺型須恵器もあるそう。ちょうどひとつの壺の上部に複数の小型の壺が付いている形をしており、埴輪というより特異な壺だろう。こちらも底部に孔が開いており、実用品ではなかったことがうかがえる。

この他、沈線で動物の絵が描かれている弥生土器や、「見返り鹿」などの大型の埴輪など関東地方ではあまり見られなかった遺物が多く、充実していた。

当然ながら、縄文時代より地域の独自性は様々なモノに表れている。それゆえに他地域との交流があった、他文化への興味と、異種なモノを吸収しようとする積極的な外向きの感受性が、交流の背景にあったと思う。そして技術や表象が様々な配合で融合されていった痕跡を、後世の私達は見ることができる。

同時に、生活用品でもなんでも、日常的に作り出すという行為をしなくなった我々には、他文化への関心も、より「高度」な精神的のあるレヴェルにおいてであって、どこか素朴で純粋なところにはなくなった気がする。生々しさ、身体性の欠如というイメージか。

モノづくりが特殊な分野にあるから、一般には、対象を見たときの関心も表面的で抽象的になりがちだと思う。そのモノが担う背景や、そのモノが結びつけている人や自然、副次的に生み出すものについて実感することはないし、実際そのような現象すら、もはや生まれないのかもしれない。

より「低い」レヴェルでの、モノ作りという行為の中での相互作用、そこに生まれる可能性というテーマは、人間や集団同士の関係の中で、もっと見直されても良いように思う。モノの持つ意味についても、忘れられるにはまだ、言葉も思想も足りていないと思う。情報化社会というが、現在でも充分にモノに溢れかえった物質文明であることには変わりないと思う。











風土記の丘学習館の敷地内、木蓮がみごとに咲いていた。

2009年3月27日金曜日

松江にて



3月21日、美保関での朝。松江行きのバスを待つ。美保関、今回の旅で唯一日本海を望む。

山陰ゆえ日本海に沿っての旅路を想像していたら結局、ほとんど海をみることがなかった。少し残念だったが、小泉八雲が著の中で絶賛していたように、電車から見る宍道湖は美しくて、海沿いを走っているようにゆったりとおおらかだった。

松江へは、境港から米子に戻って山陰本線に乗るより、バスで直行する方がはるかに早い。朝のバスには地元の人たちが次々と乗っては降りていく。顔見知りが多いらしくて挨拶や会話が絶えない。長時間乗ったにもかかわらず良心的な運賃だった。地域のバスは公共風呂のように、とくにお年寄りにとってコミュニティーの場なのだと、利用するたびにその日常的な貴重さを思う。

松江はとても気持ちの良い街だった。

中海と宍道湖を結ぶ大橋川を渡ると町の中心地に出る。小泉八雲が『日本の面影』(ラフカディオ・ハーン著、池田雅之訳)に、建造時に埋めたという人柱をめぐる伝説に触れていたが、その松江大橋をはじめ、4つの橋が架かっている。

さらに松江城をめぐる堀川をはじめ幾つもの川が流れていて、水の都といわれている。だから風通しのいいような、清々しさのある街なのかと思う。

白の北側には「塩見縄手」という江戸の町並みを残す通りがあって、小泉八雲記念館、彼が奥さんと一時住んだ「庭のある侍の家」がある。

今回の旅の目的のひとつ、小泉八雲記念館。小泉八雲といってもまともに写真すら見たこともなかった。彼がギリシャ出身だったこと、アメリカでのジャーナリスト時代を経て、39歳で来日、松江に中学教師として赴任し、寒さゆえ熊本へ移動、そして最終的には東京に赴任し、東大や早稲田大で英語を教えていたこと、16歳のときから片目が見えなかったこと、お墓が西大久保にあることなど一人の日本に惹かれた異国人の人生を、かいつまんで知ることができた。そして身近に感じた。

異文化に向き合い、研究の対象としてだけでなく、そこに暮らし人生を終えるというのはどんなことだろう。祖国を離れ、血縁も地縁もなく、39歳という年齢から馴染んだ土地で。単なる好奇心や好みの感情だけではなく、内的に結びつく何かがあったのだろう。私が日本という国や、故郷という土地と結びつくのとは違った形で。同時にそれは、これから私が異文化と内的に結びつくことができる可能性があるということだ。故郷とは違った感覚で、だけれどもとても深く。もちろん彼自身の順応性や感受性にもよるのだろうが。

文化は、血縁や地縁との影響関係が強いと思っているが、それを排したところでの精神とも響きあうのだと思えた。江戸時代にそのような感覚を持ちえていた小泉八雲は、当時にしてみたら先進的といえるだろう。

国境がないような現代社会では、今後ますますその傾向が強まっているだろう。ネット社会で文化の土台は確実にゆれていると思う。

そんな中、異文化交流や国際化などがいわれているが、真に異文化を「理解」するための課題は、コミュニケーション方法や、研究者の方法論的な立ち位置などより、もっと深いところにあると思う。文化人類学での先達が気づいているように。








記念館で、小泉八雲著「KWAIDAN」と、池田先生の編著「虫の音楽家」を購入。そして松江城へ。





城の敷地内にある松江神社。松江開府の祖と、松平初代藩主、七代藩主、そして徳川家康が祀られている。本殿は寛永五年、拝殿は寛文元年建造の権現造り。



黒塗りなのに威圧感がなく、こじんまりとしていて好感が持てる城だった。松江藩七代藩主の松平不昧公が、茶を推進したということで、茶とともに和菓子も名産。松江ビールを飲みながら、ういろうで桜餡が巻かれている綺麗な和菓子を、城のベンチで味わう。





名物菓子の「若草」は、求肥のような中身に、砂糖でコーティングしてあるような一品。お茶の席では抹茶の緑とあいまって、春らしい明るさを添えるのだろう。

2009年3月25日水曜日

植田正治写真美術館

3月20日。
新横浜から新幹線で岡山、さらに特急いずもに乗り換え米子へ。7時間ほどかかった。
到着後すぐ、植田正治写真美術館へ向かう。米子駅からタクシーで約20分、伯耆富士とよばれる大山の麓にある。

鳥取県の境港出身の写真家、植田正治さん。彼の作品は最近知ったのだけれど、すぐに好きになった。砂丘を舞台に人間がポーズをとる、映画の一場面のような演出的な写真。植田さん自身や家族が登場する写真もあり、穏やかな気持ちになる。

リアリズムを追求する土門拳とは、方法は正反対であるが交流があって、砂丘で写真を撮りあったり、お互いを認め合っていた、という逸話が、館内の説明にあった。

特別展では、「旅する写真―ヨーロッパ、アメリカ、中国にて―」と題し、1972年のヨーロッパ旅行をきっかけに、山陰から飛び出した彼が、海外で撮った街や風景、人々の写真が特集されていた。演出的な感じが薄くなっていたが、色彩の美しさや構図の面白さに、ため息が出てしまった。

「ヨーロッパの風土は山陰に似ていた」と、親しみを感じながらも、対象の新鮮さに心を躍らせて撮り続けたとあったが、その感じが良く伝わってきた。

旅先での風景や街も人間も、新鮮さが慣れに変わり、自然と見過ごしてしまうことが多い。そんな何気ない街の細部をピックアップする、写真家の視覚の敏感さに驚く。二次元的な構図と同時に、対象の光と影を瞬時にキャッチして、シャッターを切るのだから。もちろん対象の発見やそれへの興味は、外面的なものだけではなく、感性にもかかわるのだろう。


美術館の建物は、島根県出身の建築家、高松伸さんの作品である。
外装は汚れが目立ち始めているものの、館内はシンプルで広く、開放感があった。建築の効果で大山が、単なる風景でなく演出的に館に取り込まれている。その土地固有の自然を取り込んだ建築物はそのものが作品になる。都心を離れた美術館の良さだと思う。





帰りは最寄の岸本駅まで2キロほど歩く。電車が1時間に一本程度で、周囲に店もないので、無人駅で読書をしながら電車を待つ。






道中、菜の花畑が広がっていた。






菜の花、菜の花、菜の花、、、。





米子に戻り、さらに境港へ。こちらは水木しげるロードなどがある。
そして美保関へ。日本海、ようやく海に出た。

2009年3月10日火曜日

「土門拳の昭和」 展

日本橋三越で、「土門拳の昭和」展を観てきた。最終日の日曜日だったせいもあってか、来場者が多くて、全体に年齢層が高かった。

まず土門拳が何度も行ったという室生寺の作品群。体調を崩してから、最後に雪の室生寺を撮ることにこだわったという。(室生寺に日本人が惹かれるのはなぜだろう。偶然、前日に職場と家で二度も話題になった。)

白黒の仏像の写真は背景の黒がとても美しかった。真っ黒がどこまでも深い。完全に光を失った状態の美しさなのだろうか。その効果で横顔の輪郭の線が印象的だった。自分が実物を見るときの視点と、別の角度で見ることで、対象の新たな一面に気がつくし、構図という枠組みの中で、物体が生かされる。そういった写真の面白さが満載だった。それは土門拳の扱う対象が様々だったからだと思う。

縄文土器や銅鐸や信楽焼、昭和のこどもたち、海兵隊の訓練風景(この写真群の構図が面白かった。複数の人間の規則的な身体の動きが、独特の効果を生むのかもしれない。)、大学の卒業アルバム、広島の被爆者のひとたち、60年代の社会運動、柳田國男や川端康成、岡本太郎など著名人の肖像、自然の風景や花、植物。昭和という時代の記録としても興味深かったが、様々なテーマは、土門拳の関心の方向、人生の遍歴をみる気がした。

とくに印象に残ったのが、筑豊の子供たちを撮った作品群。『筑豊のこどもたち』という写真集におさめられている。山からボタを拾い集める子供や、飢えをしのぐために手をつないで立っている父子や、紙芝居に見入る子供たちなど、『ヒロシマ』の写真群もそうだが、単なる記録写真ではなく、心を打たれる。

終盤に目を引いた一枚が、花びらに雫が垂れている白い蓮の花だった。瑞々しいカラー写真。本物みたいという声も聞こえたが、実物と違う次元で美しかった。彼の仕事の集大成だと感じてしまうほど、美しく、際立っていた。

よく知るわけではないが、土門拳は芸術家ではなくジャーナリストなのだろうと感じた。写真へのこだわりや厳しさと同時に、文化への関心や社会問題への意識の高さが、仕事から伝わってくる。人生でのその時々の意識や関心を表現する手段があるのは、継続して記録していけるのは、自身にとって理想的なことでもあると思う。


2009年3月5日木曜日

相模国分寺


近所を自転車で走っていたら、相模国分寺があった。国分寺跡や国分尼寺跡はよく通る。跡地は公園になっていて国分尼寺ではよく、ゲートボールをやっている。この日通った国分寺跡では、小さな子供をつれたお母さんたちが談笑していた。

下は相模国分寺の鐘。弥生神社の上にある龍報寺の鐘を大晦日にはここ数年聞いていたが、海老名ではいっせいにいくつの鐘がなるのだろうと思った。





海老名に越して2年経つが、近所にいくつもある史跡や寺社をあまりみていない。海老名周辺の遺跡の遺物や土地の小さな博物館である、温故館くらいだ。展示物も古いままで、館の存在自体が目立たないのが残念。正月にたまたま神社で話した、市政を知る方が、海老名周辺の発掘調査の遺物はあまり整理が進んでいなくて、放置状態だと言っていたのを思い出す。この辺りは古墳もあり、神社の裏も掘れば遺物が出てきそうな感がある。

小田急線で数駅行けば、伊勢原、秦野と、史跡や自然散策にはうってつけの土地柄なのだが、普段はどうしても足が都心方面にいってしまう。近所にも貴重で興味深いものがあることをつい忘れてしまう。

寒川神社も自転車で一時間もあれば行ける距離なので、参拝してこようと思う。

国分寺の脇に、「海老名の大ケヤキ」があった。説明板によれば、昭和29年神奈川県指定の天然記念物。根回り15,3メートル、目通り高さ20メートルに達する大木である。鶴巻温泉駅近くにもこのような大ケヤキがあった。巨木の存在はやはりなにか神々しいものを感じる。