2009年3月27日金曜日

松江にて



3月21日、美保関での朝。松江行きのバスを待つ。美保関、今回の旅で唯一日本海を望む。

山陰ゆえ日本海に沿っての旅路を想像していたら結局、ほとんど海をみることがなかった。少し残念だったが、小泉八雲が著の中で絶賛していたように、電車から見る宍道湖は美しくて、海沿いを走っているようにゆったりとおおらかだった。

松江へは、境港から米子に戻って山陰本線に乗るより、バスで直行する方がはるかに早い。朝のバスには地元の人たちが次々と乗っては降りていく。顔見知りが多いらしくて挨拶や会話が絶えない。長時間乗ったにもかかわらず良心的な運賃だった。地域のバスは公共風呂のように、とくにお年寄りにとってコミュニティーの場なのだと、利用するたびにその日常的な貴重さを思う。

松江はとても気持ちの良い街だった。

中海と宍道湖を結ぶ大橋川を渡ると町の中心地に出る。小泉八雲が『日本の面影』(ラフカディオ・ハーン著、池田雅之訳)に、建造時に埋めたという人柱をめぐる伝説に触れていたが、その松江大橋をはじめ、4つの橋が架かっている。

さらに松江城をめぐる堀川をはじめ幾つもの川が流れていて、水の都といわれている。だから風通しのいいような、清々しさのある街なのかと思う。

白の北側には「塩見縄手」という江戸の町並みを残す通りがあって、小泉八雲記念館、彼が奥さんと一時住んだ「庭のある侍の家」がある。

今回の旅の目的のひとつ、小泉八雲記念館。小泉八雲といってもまともに写真すら見たこともなかった。彼がギリシャ出身だったこと、アメリカでのジャーナリスト時代を経て、39歳で来日、松江に中学教師として赴任し、寒さゆえ熊本へ移動、そして最終的には東京に赴任し、東大や早稲田大で英語を教えていたこと、16歳のときから片目が見えなかったこと、お墓が西大久保にあることなど一人の日本に惹かれた異国人の人生を、かいつまんで知ることができた。そして身近に感じた。

異文化に向き合い、研究の対象としてだけでなく、そこに暮らし人生を終えるというのはどんなことだろう。祖国を離れ、血縁も地縁もなく、39歳という年齢から馴染んだ土地で。単なる好奇心や好みの感情だけではなく、内的に結びつく何かがあったのだろう。私が日本という国や、故郷という土地と結びつくのとは違った形で。同時にそれは、これから私が異文化と内的に結びつくことができる可能性があるということだ。故郷とは違った感覚で、だけれどもとても深く。もちろん彼自身の順応性や感受性にもよるのだろうが。

文化は、血縁や地縁との影響関係が強いと思っているが、それを排したところでの精神とも響きあうのだと思えた。江戸時代にそのような感覚を持ちえていた小泉八雲は、当時にしてみたら先進的といえるだろう。

国境がないような現代社会では、今後ますますその傾向が強まっているだろう。ネット社会で文化の土台は確実にゆれていると思う。

そんな中、異文化交流や国際化などがいわれているが、真に異文化を「理解」するための課題は、コミュニケーション方法や、研究者の方法論的な立ち位置などより、もっと深いところにあると思う。文化人類学での先達が気づいているように。








記念館で、小泉八雲著「KWAIDAN」と、池田先生の編著「虫の音楽家」を購入。そして松江城へ。





城の敷地内にある松江神社。松江開府の祖と、松平初代藩主、七代藩主、そして徳川家康が祀られている。本殿は寛永五年、拝殿は寛文元年建造の権現造り。



黒塗りなのに威圧感がなく、こじんまりとしていて好感が持てる城だった。松江藩七代藩主の松平不昧公が、茶を推進したということで、茶とともに和菓子も名産。松江ビールを飲みながら、ういろうで桜餡が巻かれている綺麗な和菓子を、城のベンチで味わう。





名物菓子の「若草」は、求肥のような中身に、砂糖でコーティングしてあるような一品。お茶の席では抹茶の緑とあいまって、春らしい明るさを添えるのだろう。

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