2012年8月7日火曜日

南三陸町、気仙沼市にて


7月18日~19日、宮城県本吉郡南三陸町および気仙沼市を訪ねた。県の神道青年会主催のプログラム。今後の支援活動の在り方や神社での災害対策を考えるという目的。2日間、宮城県の八幡神社、山内義夫宮司様に御同行いただいた。道中、仮設住宅での生活状況や、震災前後の街や水産業のようすなどレクチャーして頂いた。今回はかなわなかったが、田束山の山頂から、海岸線を見せたかったと、宮司様がしきりにおっしゃっていた。次回はぜひ訪れたい。

宿泊は、避難所にもなった南三陸町「ホテル観洋」。夜には、現地の神職さんたちと懇親会。神社再建の御苦労から、復興計画や支援活動への御意見までいただいた。通常、伺いにくい震災にかかわる質問も気軽に投げかけることができた。貴重な御縁に感謝した。




高台より津波の被害を受けた今泉地区のようす。命からがら逃げたという山内宮司さん。

今泉地区を見渡す高台にある小学校に立つ碑
“「でんでんに逃げよ」その教えを伝えたい”


そして、気仙沼市波路上岩井崎の琴平神社において正式参拝。清原正臣宮司様が、震災当日の生々しい被災体験を語られる。そして普段の神職としての地域の人々との関係づくりや、近隣神社同士の連帯が、復興の過程で重要なはたらきをしていると教えられた。御祈祷のはじめに宮司様みずから奉納された、郷土芸能である法印神楽の太鼓と謡が、心の奥まで深く響いた。







どこかユーモラスな狛犬








琴平神社から徒歩で気仙沼湾へ



南三陸町歌津の町立伊里前小学校にも訪問。広々とした天井の高い木調の校舎内。予想もしてなかった快適で気持ちの良い空間に驚いた。兵藤文隆校長先生より、震災当時の避難状況、被災状況を伺う。そして、38世帯の仮設住宅と2校とが共存する学校の現状について御説明いただく。

 阪神淡路大震災後、数年後に不登校の児童が増えたことに触れ、子供たちをよく観察すること、心のケアについての長期的課題を熱心に話された。スクールバスでの登下校で、寄り道ができないこと、運動不足…。スクールバス到着の校内放送が流れ、校庭で遊んでいた子供たちが、メールの約束をして別れる声にハッとした。子供たちの日常。当時の私の日常を思い出し、重なった。


そして、様々に状況を設定した毎月の徹底的な避難訓練、子供たちへの「ふるさと教育」。地域の大人たちを対象に、郷土史などを学ぶ「たつがね学校」の開校など、復興途中の厳しい状況下で 通常でも困難な試みをされていた。地域コミュニティにおける学校の役割と今後の街づくりを見据えた実践。刺激を受けた。


小学校の麓にある仮設商店街。幟が風ではためいていた。

伊里前小学校校舎

二階のベランダからの風景。校庭の半分に38世帯の仮設住宅が並ぶ

図書室。寄贈の綺麗な本が並ぶ。広くて明るく解放的な小学校の内部に驚き、感心。
 

南三陸町の語り部ガイドさんの御案内で、市街地を視察。そして、今年2月にオープンした仮設商店街「南三陸町さんさん商店街」へ。30店舗の現地業者さんがはいっている。特設会場では、震災を記録したパネル展示も。ガイドさんから写真スライドで震災当日の詳しい解説をいただく。言葉とまなざしから、親しい方々を亡くされた痛みや、震災を風化させまいとする強い御意志が伝わってきた。







点在する仮設住宅地のようすや、海沿いにある各集落の跡地、瓦礫の山、取り壊しを待つ建物から、復旧もまだこれからという印象を抱いた。同時に、現地の固有で豊かな自然、郷土文化と、人々の生活との親密な関わりは、復興の土台や契機となることに気づかされた。そこでの神社の位置づけや機能も再考した。

復興が進む中、表面化しない被災地の方々の生活や心の問題は、多様化し増加していくことと思う。可能な限り現地の方々の声を聞き、できることを模索し続けたい。この地での学びについて、周囲に伝え問題提起すること。実践につながるよう、議論を重ねること、他分野の人たちとも情報交換や連携をすること。現地を「訪問」した者の責任を思う。そして、お世話になった皆様への御恩返しをしたいと思う。


学校の校庭に集められた瓦礫の山




伊里前小学校への坂の途中から見た海、街。線路の高架が壊れたまま残る
職員の方が避難を叫び続けていた防災対策庁舎前。バスが数台止まり、祈りを捧げる人たちの姿が







ところどころにメッセージや千羽鶴など。世界に向けた支援への感謝の言葉も。




いわき市にて 「千度大祓」

7月16日、福島県いわき市のアクアマリン福島にて、東日本大震災「慰霊祭」、復興祈願「千度大祓」が斎行された。

夏の強い日差しと心地よい海風が吹く中、慰霊祭ののち、かがり火の点火、放生式が行われ、そして全国からの神職50名、國學院大学の学生さんたち54名、そして地元福島の、全国からの参列者の方々とともに、大祓詞を十巻、奏上した。

諸々の罪や過ちを祓い清める大祓い… 奏上しながら一瞬、さまざまな思いが込み上げてきて涙腺がゆるんだけれど、心を立て直し、そして無心になって奏上した。詞が祈りになって、福島の大地や海、草木、そして震災で亡くなった方々の魂に届きますようにと。

参進して斎場の丘を下るとき、すーっと静かな気持ちになり、まわりの空気と風景が変わった。

控室で言葉を交わした女性神職さんは、兵庫県からはるばる参加したという。同じ思いをいだき集まって、ひたすらに祈る。共感の場。それを肌で感じた。

震災の年に続き、二度めの開催。呼びかけから準備まで、主催者の方々の御苦労を思うと同時に、このような祈りの場にいられたことに感謝した。第三回、四回…と年毎に開催の意味も変わるのだろう。毎年、変わらぬ思いでこの場にいられますように。



アクアマリン福島、三連休最終日、家族連れでにぎわっていた
神籬や斎場の準備をする主催者の方々



2012年7月21日土曜日

「協働社会へのチャレンジ~被災地における社会関係資本を活かす試み~」

7月14日 専修大学で行われたシンポジウムのようす。
昨年第一回めと同様、内容が充実しているのはもとより、現地で活躍されている登壇者の方々の熱意が伝わり、会場の雰囲気もとてもよかった。

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.345705268843804.80737.100002130027055&type=3&l=533907b013





南三陸町、気仙沼市 (FACEBOOKアルバム)


7月18~19日、神道青年会のプログラムで、被災地を訪問。

FACEBOOK上でつくったアルバムをためしに載せてみた。
詳細は後程アップしなければ。 
(写真をクリックすると拡大、コメントが表示されます。)

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.347756921971972.81422.100002130027055&type=1&l=07049d38f9

2012年7月12日木曜日

齋藤茂吉


けだものは 食べもの恋ひて 啼き居たり 何といふやさしさぞこれは  (『赤光』 大正一年) 



先月、『茂吉再生―生誕130周年 齋藤茂吉展―』を見たのを機に、歌集をぱらぱらと読む。十代の頃読み、心に残っていた歌人、齋藤茂吉。医者として多忙を極めながら、その日、その瞬間を歌に表現していく生き方―。

『赤光』、『あらたま』、情念、生命―歌の底に流れているイメージは、彼が精神科の医師だったことにも起因するような気がした。人間の精神と向き合う目は、おのれの心の深奥をもじっとみつめ、それを写実することで正常を保ち、生き延びてきたようにさえ思える。隠そうとしても心情が滲み出てくる歌の数々は、ときに痛々しい。生きることの痛みが溢れ出て、観ているほうの痛みと重なっていくような気がした。

そのなかで、3年ものウィーン、ミュンヘンでの留学、ヨーロッパ訪問の歌からは、異国の地での茂吉の胸の高まりが伝わってくる。


空のはて ながき余光たもちつつ 今日より日が アフリカに落つ (大正10年 紅海)

奴隷らも 豪富のひとも かぎりなく 生を愛しみて 此処につどひき
(大正12年 ポンペイ 遺跡を訪ふ)

 
しかし、留学中に実家の脳病院が火事で全焼、多くの死傷者を出す大惨事となった。その後の厳しい再建の道のり…欧州の留学先から送った、書籍数千冊の焼失。


焼けあとに われは立ちたり 日は暮れて 祈りも絶えし 空しさのはて (大正14年 焼けあと)



さらに、その後も続く苦難―戦時の文学者への責任追及。夫人のスキャンダルと別居。30歳下の弟子との恋…諦念と恋情で葛藤する苦悩の日々。老いゆく焦りと哀しみ。病との闘い。世間を離れ、静かで孤独な故郷、東北での療養生活―



わが体机に押しつくるごとくにしてみだれ心をしづめつつ居り  (『暁紅』 昭和十年)

若人の涙のごときかなしみの我にきざすを済ひたまわな  

山なかに心かなしみてわが落とす涙を舐むる獅子さへもなし (『暁紅』昭和十一年) 

とめどなく 心狂ひて 悲しむを いだきて寝し われに聞かしむ (『寒雲』昭和十三年)


―何時でも、そして死の前年まで歌をつくり、衰弱し死にゆくおのれ自身の生を写し続けた(昭和二十八年、71歳で没)。


印象的な写真があった。晩年、故郷、東北の川べりに座り込み、遠くを見つめる横顔と、雪山に立ちすくむ孤独な後姿である。


最上川の 流のうへに 浮かびゆけ 行方なきわれの こころの貧困 (『白き山』昭和二十二年)



展示では、少年時代と老年に描いた動植物のスケッチもあった。素直で穏やかな心、微細な部分にまでいきわたる観察眼による描写―。写実性と主観の表現(「写生」=生を写す)を追求した茂吉の精神が表れていた。そして、茂吉の波乱の人生の末に、少年時代に通じる心の安らぎをみた気がして、なんだかほっとした。



「神奈川近代文学館」―港の見える丘公園を抜けてたどり着く閑静な館。ふらりと散歩するにもよい。遠藤周作、小泉八雲展なども心に迫る充実の内容だった。

2012年7月7日土曜日

三輪山 ~追記(大神神社宝物収蔵庫)


大神神社の宝物収蔵庫には、山の神祭祀遺跡出土のミニチュア土器(土製模造品)、拝殿東方の禁足地出土の子持ち勾玉、狭井河出土の須恵器(横瓶、高坏、はそう、台付長頸壺、提瓶)を展示していて、見ごたえがある。

酒 造道具を模したミニチュア土器のセット(杵、臼、柄杓、案、瓢…)は、『延喜式』の記述から、農耕儀礼や酒造儀礼にかかわる祭祀遺物と考えられる。そして、三輪山の神である大物主の神の酒神としての性格の一端が推測される。

また、須恵器の出土から、三輪山の祭祀を担った太田田根子の伝承と、出生地である大阪府和泉陶邑(すえむら)古窯跡群の関係がこの地において、浮き彫りになる。


大場磐雄 『まつり 考古学から探る日本古代の祭』
古谷毅 「奈良県三輪馬場山ノ神遺跡の祭祀考古学的検討」 ほか参照。




大神神社 二の鳥居
大神神社 拝殿


三輪山 ~山麓からの祈り

狭井(さい)神社―三輪山の登拝口がある―
今年五月、三輪山を登拝した。山そのものが御神体のため、近年まで禁足地だった。現在では、写真撮影、飲食、草花土、石の採取などが禁じられている。

山頂の「奥津磐座(おきついわくら)」は、標高467,1m。狭井神社の登拝口から、途中、禊場もある三光の瀧~中津磐座(なかついわくら)~烏山椒の林~椎・樫の樹林~高宮(こうのみや)神社と続く。片道40分ほど、なだらかな山道を登る。川沿いを清掃する人たちの姿もあり、よく手入れされた美しい自然が残る。

すれ違う「登拝者」の人たちと挨拶を交わし、ふつうの登山さながら。素足のまま黙々と登る人もいれば、友人同士、家族、カップルでおしゃべりしながら楽しげに歩く人たちもいる。奥津磐座では、講の人たちであろう一行が神饌を並べて供え、手を合わせていた。


―かつて古代人は、麓から祈りを捧げた。西山麓の「馬場山の神遺跡」をはじめ、山麓各地で発見された祭祀遺跡が、それを物語る。神道考古学を提唱した大場磐雄の著、『まつり』にもそのことが書かれている。

「古代人はこの神聖なお山にたいして、麓の随所に斎庭をもうけ、この霊を招いて奉斎した」。

―そして仏教の伝来により、山麓から山頂へと、山の祭祀のかたちが変化していく。

「日本の山崇拝の初期にあっては、山麓奉祀が主であり、後世仏教が習合してから山頂に登拝する風習が起こったと考えている…親しく山頂をきわめ、山霊に接するを目的とすることとなった」。
 
その象徴的な例が、日光男体山の祭祀である。栃木県宇都宮市の臼ケ峰という丘に鎮座する二荒山神社は、日光市の男体山を遥拝(ようはい:遠方から神のいる方向へ拝む)する神社でもあるという。一方で、男体山山頂の祭祀遺跡には、多くの仏具が出土している―。


三輪山を登りながら、遥か遠方から拝んだ人たち、麓の磐座からこの山を崇めた人たち、最初に禁足の山に入り、参拝した僧たちのことを思った。徐々に、気軽に土足で踏み入れることが、後ろめたいような畏れおおいような気持ちになっていった。 「親しく山頂をきわめ、山霊に接する…」。どれほどの覚悟や目的があっただろう。

時を経て、祭祀や祈りの形は変わる。人によって信仰の在り方もさまざまだ。ときに私をその場所に埋め込み、何かを求める。一方で、祈りの場そのものを客体化して「観光」する。 「聖地ブーム」はその両側面を含んでいるだろう。

実際、人間の在り方は変われど、多くの霊山や聖地はそのままに存在している。その尊さを思う。せめてその場所に踏み込んだとき、祈りの歴史のなかで、私の立ち位置を自覚しよう。心身を澄まして、古代の人たちへの崇敬の念をこめて。

磐座神社―少彦名の命を祀る。山麓にある辺津(へつ)磐座のひとつ。自然石のみ、社殿はない。