公主嶺小学校同窓会編の『満洲公主嶺<写真集>-その過去と現在-』(1988)
『満州 公主嶺 過ぎし日の40年』(1987)の2冊がある。
嵯峨井健氏の『満州の神社興亡史』(1998)での公主嶺神社の記述も、関係サイトの写真や内容も、この資料によっている。
上記の「公主嶺小学校」編の資料は、当小学校出身の方々の当時を語る文章が多数載っている。祭りや戦時の行事といった神社での出来事についてもたびたび触れており、 住民がどのように神社と関わっていたのかがうかがえる。さらに神社の創建や改築なども、公主嶺という土地の変遷のなかで書かれている。
大学図書館の書庫で発見したこの2冊、地図や航空写真、土地の人たちの集合写真、神社や学校、農業試験場(畜産や造林も行われている)等々の写真も充 実しており、当時の公主嶺の様子と神社の位置付けを知るには、とても優れた資料である。
私の曽祖父は満州の神社に奉仕していた。娘である祖母と、婿養子となった神主の祖父、そして父の兄は共に満州で暮らし、「満州事変の前」に引き揚げたという。祖母は10年程前に亡くなり、祖父と叔父は私の生まれる前に亡くなっている。父が知るのは、曽祖父たちが「公主嶺」を拠点としていたことのみである。
本のなかで唯一、
「昭和十年四月、公主嶺神社の第三代神主として森安忠が赴任した。前年に池田(名は不詳)神主が死亡したためであった。森安神主は発展しつつある公主嶺にふさわしい社殿を整備したいと考え、・・・」
(『満州 公主嶺 過ぎし日の四十年』p296)
という記述をみつけた。ここにある「池田(名は不詳)神主」というのが、曽祖父だろうか。曽祖父が死去した後、一家で引き揚げたとすれば年代的にはつじつまが合う。
「公主嶺神社」そのものの記録はないものか。神社神道関係の資料にあたればよいのだろうが、戦後の満州の状況を考えると、記録が残る可能性はあまり無いだろう・・・。
教化活動、日常的な神事、行事も気になる。だが同時に、祖父母が、時代や地域社会、神道について何を考えながら満州の地に赴き、奉職していたのか。当時の満州の人たちはどんな思いで神社と関わっていたのか・・・。当時を知る方々に詳細を聞く術もなく、活字に頼るしかないのだが・・・。
満州での生活を何度か祖母に聴いたことがある(ロシアの影響を受けた食生活、日本兵に能の謡を教えていたことなど)。だが、神社の話を聞けずに他界してしまった。悔やまれる。
ともあれこの神社を基点に、日本史や神道史上の「満州」、「満州の神社」の意味を考えてみたい。そして御先祖の糸に導かれ私自身を投入し、生々しい作業にすることにもまた、意味あることと思うのだ。人間同士の接点から紡ぎだされた糸、そこから広がる過去と現在という歴史の地平が、互いを照らし出すような。(わかりにくいイメージ・・・)歴史認識とはそういうものでないかと思うのだ。時空を超え、他人に身心をいかに寄せるか。
上記の資料に付属していた、「公主嶺市街地」(昭和10~20年)の地図。コピーして、つなぎ合わせてみた。
キリスト教会や寺もいくつかある。そのなかで目立って公主嶺神社の敷地は広く(弓道場などがある広い公園の中である)、駅前の街の中心に位置している。様々な住民の行事を行う公共の場としての神社がある。
宅地を一軒ずつ見ていくと「池田」家があった。祖父母宅なのかどうか、やはり気になる。