2009年2月7日土曜日

仏教と我執

仏教関係の本を読んでいたら、「我執」について考え込んでしまった。
西洋哲学専門の同僚に、西洋にも「我執」ってあるのだろうか聞いてみたら、「自己愛」じゃないかとのこと。ナルシシズム。他者に対する愛情も自己への愛情になっていく、西洋の「愛」について話してもらった。とても興味深くて早速、自宅にあったフロイトの「精神分析入門」のナルシシズムに関する論を読んでみる。

それにしても我執を自己愛として考えると、西洋では我執から離れるとか、我執を捨て去ることを自由への解放や救いだとする発想はあるのだろうか。そういう発想があるから仏教は意識的な我執の根源を求めて、無意識の層での我執の構造を考えたりする。

仏教の唯心論というのは初めて触れた。無限の過去から現実経験を生み出し続け、さらにその現実経験に包括されるようなアーラヤ識というものがあって、そのような縁起の世界を、アーラヤ識から生じた自我意識たるマヤ識が自分のものだとミステイクする。そんな人間存在の根源的なミステイクが、我々の自我意識に根付いているという。西洋哲学のように自己意識が認識の基盤ではなくて。

我執の根源もこのレベルにあるようだけど、発心していない、むしろ我執を楽しみ、無常を観じるには程遠い我々にはわからないところのものかもしれない。無意識的な自我意識など。けれども当然、そのレベルまで降りないと人間の生の本質はわからない。

まずは、我執や自己愛について、発心するとはどういうことなのか、課題のひとつになりそう。専門にしているわけでもないので、単に知識を増やしたり理論的理解は目的ではない。私自身の問題として少しずつ考えていきたい。

玉城康四郎さんの「仏教の根底にあるもの」は、仏教初心者の私でも感動した。50ページ程の同名の論稿は、3回くらい繰り返し読んでようやく、ほんの少し主体的な理解に近づけた気がする、文脈や言わんとすることが。もちろん感覚で内容をつかんだのではなくて。そのうえ仏教用語の知識はゼロに等しいので(「正法眼蔵」を読む講座に4年も通ったにもかかわらず、、、。)、理論的にも細部までの理解とはいえないけれど。何より新しい世界像が開かれていく興奮があった。

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