ステイシー・ケントのアルバムを勧められて聴いたら、うち数曲がカズオ・イシグロの作詞とあって、驚いた。ちょうど彼の小説、『私を離さないで(NEVER LET ME GO)』を読んだ直後だったので。しかも原題と同名の曲も。
この曲、「Never Let Me Go」は、カズオ・イシグロの作詞ではない。今までも何人かのジャズシンガーが歌ってきたものらしい。著者が村上春樹に借りたジャズCDに、この曲があったため小説に使ったという逸話もある。ストーリーの中でも、重要な意味を持つ。聴くたびに、あの恐ろしくて悲しい場面が浮んでくる。体を揺らしながらこの曲を歌う少女...凄まじい運命が襲うのをすでに予期している彼女の背中...。実際に聴いてみると、物語の重苦しさを静かに浄化する優しい曲だ。ステイシーの淡々とした歌いっぷりが、よりいっそう心に響く。
小説、『私を離さないで』は、衝撃的な出会い。(この作品についての著者のインタビューをふまえて読めば尚更、テーマの普遍性が...) なんとも不思議なめぐり合わせの一枚。
2009年6月27日土曜日
2009年6月11日木曜日
ラフカディオ・ハーンと日本文化
ここ最近、ラフカディオハーンの関連書籍を軸に、異文化理解と日本文化の性質について考えている。ハーンの独特の生き方や日本との関わり方、著作、欧米人への影響をみていくと様々にテーマが展開し、次々に問題がでてくる。
そのため骨組みを作ったはいいが、いっこうにまとまらない。
ドナルド・キーンをはじめ、日本研究に関わる欧米人のハーン批判に共通するのは、西洋人が理解できぬほど「日本を神秘化した」という点だ。それからアイデンティティーの喪失と、分裂的であいまいな性質。それは欧米人から見た、日本人の否定的側面と類似しているといった指摘がある。
神秘性と、暗示的な表現、ここに表現の簡潔さ等々が加わるが、これらの性質は、芸術及び文学の「ジャポニズム」の領域では日本文化の魅力として欧米に受け入れられてきた側面でもある。
(それにしても外国人が抱く「神秘性」とはなんなのか。美的価値としての「神秘性」というのもはっきりしない。)
実際、日本文化がこのような性質を持っているのか、そのうえで自文化の性質を自覚し、経済、文化あらゆる分野での交流において、どのようなレスポンスをとるべきか。そんな流れで考えている。
外国人の日本人論を読んでいると、一概に「日本人」とくくることはできないし否定したい内容はあるが、気づかされるところが多い。自分を見る新たな視点を得るということか。
また、異文化の受容と自文化の発信のしかたを考えることは、自国のアイデンティティーを模索することにつながってくる。歴史的にみて、バランスのとれた文化交流をしていない日本はこの点をおざなりにしてきたという指摘は、納得がいく。(この指摘には、異文化受容において、明治期の日本の知識人及び、現代の研究者は、「異文化埋没型」、「異文化拒否型」の二極に分かれるとある。)
だが文化のアイデンティティーについては、例えば死生観といった精神の深いところまでおりないと見えてこない問題でもある。自分自身の内面と社会との接点を意識して突き詰めるということだ。
ハーンは世界各国を移動し、根付く場所を探していた。欧米人からハーンをみれば宗教の問題がひっかかるのだと思う。ギリシャ出身であり、幼い頃の経験からキリスト教を嫌悪し、ギリシャの神々や精霊に惹かれた。日本の神道や文化への親近感をもつゆえんに思う。彼自身の内面に触れる部分が日本文化のうちにあったのだろう。このことは彼の作家生活にも表れている。
松江、熊本から東京へ移った晩年、ハーンは「KWAIDAN」を著すが、作風は文学のジャポニズムともいわれ、リアリズムを無視し、暗示的で簡潔。一年数か月のわずかな松江での生活から見出した日本の美的価値が、表現者としての拠りどころになっていたという。
「あおやぎ物語」(「THE STORY OF AOYAGI」)は、樹の精が登場する美しい物語であるが、ギリシャのアニミズムと日本の風土が違和感なく融合していて感じ入ってしまう。
それから、ハーンはたびたび「ghostly」という言葉を使うのだが、そこに彼の本質的な部分が表れているように思う。彼にとって文学の根底に求められるのも「ghostly」である。(「ghostly」の生まれる源泉が夢だと言っているのがおもしろい。)
『さまよえる魂の歌』(ちくま文庫)にある、次のような言葉が印象に残っている。
霊(ghost)的なものにたいする感覚を持たない人間が、なにかに生命を吹き込むことなどできるはずはない、人々の魂に触れることを可能ならしめているのは、言葉そのものである、しかもそれを知るためには、同じように言葉によってしか触れられない霊(ghost)的なるものを、自らのうちに保有していなくてはならない。(「文学における超自然的なるもの」)
ハーンが日本文化、あるいは松江を通して抱いた日本の美的価値のどこにghostlyを見出したのか、はっきりは分からない。だが現代にも持続している日本文化の根底にある一要素に触れている気がしてならない。
今回、課題をまとめるにあたって日本人論、異文化理解についての著作を拾い読みしているが、なかでも河合隼雄さんが経験をもとに、自分の意識にある「内なる異文化」から異文化理解を書いていて興味深かった。(『体験としての異文化』岩波書店)
それから馬渕明子『ジャポニズム 幻想の日本』(星雲社)も分かりやすいのでジャポニズム入門者の私には興味深く読めた。
ジャポニズム文学では、フランシス・キング『日本の雨傘』が、60年代の古いものだが良い出会いだった。原文の巧みさに訳の良さも加わってか、日本人が書いたもののように日本語訳に違和感がない。登場人物も日本人で、心理描写も簡潔だが理解しやすく共感できる。奇妙な体験をした気がする。他の著作は訳本が出されていないので原著を注文したが、いつ読破できるだろうか、、。この流れで、カズオ・イシグロの一連の著作も是非読みたいと思った。
そういえば外国人からみた神道というのも興味深いテーマだと思う。その枠組みの中で、日本文化や現代の宗教問題と絡めて考えてみたい。
そのため骨組みを作ったはいいが、いっこうにまとまらない。
ドナルド・キーンをはじめ、日本研究に関わる欧米人のハーン批判に共通するのは、西洋人が理解できぬほど「日本を神秘化した」という点だ。それからアイデンティティーの喪失と、分裂的であいまいな性質。それは欧米人から見た、日本人の否定的側面と類似しているといった指摘がある。
神秘性と、暗示的な表現、ここに表現の簡潔さ等々が加わるが、これらの性質は、芸術及び文学の「ジャポニズム」の領域では日本文化の魅力として欧米に受け入れられてきた側面でもある。
(それにしても外国人が抱く「神秘性」とはなんなのか。美的価値としての「神秘性」というのもはっきりしない。)
実際、日本文化がこのような性質を持っているのか、そのうえで自文化の性質を自覚し、経済、文化あらゆる分野での交流において、どのようなレスポンスをとるべきか。そんな流れで考えている。
外国人の日本人論を読んでいると、一概に「日本人」とくくることはできないし否定したい内容はあるが、気づかされるところが多い。自分を見る新たな視点を得るということか。
また、異文化の受容と自文化の発信のしかたを考えることは、自国のアイデンティティーを模索することにつながってくる。歴史的にみて、バランスのとれた文化交流をしていない日本はこの点をおざなりにしてきたという指摘は、納得がいく。(この指摘には、異文化受容において、明治期の日本の知識人及び、現代の研究者は、「異文化埋没型」、「異文化拒否型」の二極に分かれるとある。)
だが文化のアイデンティティーについては、例えば死生観といった精神の深いところまでおりないと見えてこない問題でもある。自分自身の内面と社会との接点を意識して突き詰めるということだ。
ハーンは世界各国を移動し、根付く場所を探していた。欧米人からハーンをみれば宗教の問題がひっかかるのだと思う。ギリシャ出身であり、幼い頃の経験からキリスト教を嫌悪し、ギリシャの神々や精霊に惹かれた。日本の神道や文化への親近感をもつゆえんに思う。彼自身の内面に触れる部分が日本文化のうちにあったのだろう。このことは彼の作家生活にも表れている。
松江、熊本から東京へ移った晩年、ハーンは「KWAIDAN」を著すが、作風は文学のジャポニズムともいわれ、リアリズムを無視し、暗示的で簡潔。一年数か月のわずかな松江での生活から見出した日本の美的価値が、表現者としての拠りどころになっていたという。
「あおやぎ物語」(「THE STORY OF AOYAGI」)は、樹の精が登場する美しい物語であるが、ギリシャのアニミズムと日本の風土が違和感なく融合していて感じ入ってしまう。
それから、ハーンはたびたび「ghostly」という言葉を使うのだが、そこに彼の本質的な部分が表れているように思う。彼にとって文学の根底に求められるのも「ghostly」である。(「ghostly」の生まれる源泉が夢だと言っているのがおもしろい。)
『さまよえる魂の歌』(ちくま文庫)にある、次のような言葉が印象に残っている。
霊(ghost)的なものにたいする感覚を持たない人間が、なにかに生命を吹き込むことなどできるはずはない、人々の魂に触れることを可能ならしめているのは、言葉そのものである、しかもそれを知るためには、同じように言葉によってしか触れられない霊(ghost)的なるものを、自らのうちに保有していなくてはならない。(「文学における超自然的なるもの」)
ハーンが日本文化、あるいは松江を通して抱いた日本の美的価値のどこにghostlyを見出したのか、はっきりは分からない。だが現代にも持続している日本文化の根底にある一要素に触れている気がしてならない。
今回、課題をまとめるにあたって日本人論、異文化理解についての著作を拾い読みしているが、なかでも河合隼雄さんが経験をもとに、自分の意識にある「内なる異文化」から異文化理解を書いていて興味深かった。(『体験としての異文化』岩波書店)
それから馬渕明子『ジャポニズム 幻想の日本』(星雲社)も分かりやすいのでジャポニズム入門者の私には興味深く読めた。
ジャポニズム文学では、フランシス・キング『日本の雨傘』が、60年代の古いものだが良い出会いだった。原文の巧みさに訳の良さも加わってか、日本人が書いたもののように日本語訳に違和感がない。登場人物も日本人で、心理描写も簡潔だが理解しやすく共感できる。奇妙な体験をした気がする。他の著作は訳本が出されていないので原著を注文したが、いつ読破できるだろうか、、。この流れで、カズオ・イシグロの一連の著作も是非読みたいと思った。
そういえば外国人からみた神道というのも興味深いテーマだと思う。その枠組みの中で、日本文化や現代の宗教問題と絡めて考えてみたい。
2009年6月10日水曜日
2009年6月8日月曜日
オバマ大統領 カイロ演説
ホワイトハウスのブログで観ることができた。
リスニング能力の低さゆえ、もちろん全ては聴き取れない、、。
だが、世界が少しずつ変化するのかもしれない、そういう期待を抱かせる演説だった。
オバマ大統領の「合衆国再生」くらいしか読んでないので、アメリカを巡る宗教問題にしても認識がとても浅い。
現代の世界の宗教の構図も少しずつ理解して、変化をみていきたいと思う。
リスニング能力の低さゆえ、もちろん全ては聴き取れない、、。
だが、世界が少しずつ変化するのかもしれない、そういう期待を抱かせる演説だった。
オバマ大統領の「合衆国再生」くらいしか読んでないので、アメリカを巡る宗教問題にしても認識がとても浅い。
現代の世界の宗教の構図も少しずつ理解して、変化をみていきたいと思う。
2009年6月7日日曜日
「Noism」芸術監督 金森穣さん
土曜の朝日新聞夕刊、フロントランナーに掲載されていた。
2004年、新潟市に誕生した「Noism」は、「地方自治体の劇場に専属する全国初のダンスカンパニー」であり、金森さんは29歳の若さで芸術監督。カンパニーの設立は金森さんの提案だという。
金森さん自身、欧州で経験を積んだ超一流のダンサーらしい。市の文化政策にも、芸術への意識の高さや実行力にこんなことができるんだと驚いた。また、金森さん自身のダンスへの厳しいスタンスや、表現活動と雑務の間での葛藤、それを通しての「舞台芸術は単なる自己表現の場じゃない。社会に根ざしていくことが、創作にもどこかでつながってくる」という言葉にはっとした。
地方自治体が世界的な芸術家を迎え、彼らが全力で活動に才能と心身を注ぐことで、地域の芸術活動が本物になる。それゆえに確実に根付いていく。カンパニーのHPを見たら、新潟市民向けに研修生カンパニーの募集をしていた。
地域の先々まで見据えた政策と、ひとりの芸術家の力にただ感心した。
東京公演もあるので機会をみつけて是非観に行きたい。
2004年、新潟市に誕生した「Noism」は、「地方自治体の劇場に専属する全国初のダンスカンパニー」であり、金森さんは29歳の若さで芸術監督。カンパニーの設立は金森さんの提案だという。
金森さん自身、欧州で経験を積んだ超一流のダンサーらしい。市の文化政策にも、芸術への意識の高さや実行力にこんなことができるんだと驚いた。また、金森さん自身のダンスへの厳しいスタンスや、表現活動と雑務の間での葛藤、それを通しての「舞台芸術は単なる自己表現の場じゃない。社会に根ざしていくことが、創作にもどこかでつながってくる」という言葉にはっとした。
地方自治体が世界的な芸術家を迎え、彼らが全力で活動に才能と心身を注ぐことで、地域の芸術活動が本物になる。それゆえに確実に根付いていく。カンパニーのHPを見たら、新潟市民向けに研修生カンパニーの募集をしていた。
地域の先々まで見据えた政策と、ひとりの芸術家の力にただ感心した。
東京公演もあるので機会をみつけて是非観に行きたい。
2009年6月6日土曜日
クラフトフェア まつもと
5月30~31日まで、松本市の「あがたの森」で開催の「クラフトフェア まつもと」に行ってきた。全国から審査に通った出品者が集まり、雨の中多くのテントが張られていた。応募も殺到するらしく今年は1250組も来たらしい。出品者名簿を見ると300組近くが出品していた。驚いたのが来場者の数である。公園前の道路は向かう人の列になっているし、テント内は所狭しと人がいた。
臨時バスの運行や松本駅の横断幕など、街のあちこちでクラフトフェアへの協力体制がみられる。NPO法人松本クラフト推進協会が主催。これほどの人の入りでも資金難らしく、支援金の呼びかけが切実だった。
陶芸家谷口さんの作品群。実用品が多い中、磁器のオブジェ。目立たない場所で雨ざらしになっていたにもかかわらず、立ち止まり手にとって興味深く眺める人が多くいた。設置等の手伝いができたのだが、出品者サイドを少し味わえる楽しい経験だった。
写真はガラス、陶器の作品ばかりになってしまったが、自作の米や農作物からの加工食品や紙・布・木・皮革製品とあらゆる品が並んでいた。ガラス、金属製品や飴細工などの実演まであった。日常品にしては高額だが、製品はどのテントでもよく売れていた。手仕事品=稀少品、高級品という単純なことではなく、様々な面で値段相応に思う。
また、このような作品の作家達は、市場に出す場が少ない。このフェアは、表現者と購入したい人とを結ぶ場として、成功している良い例なのだろう。
来場者は、男女を問わず30代から5、60代までが多いようだった。年配の男性のいでたちから各テントの雰囲気に至るまで、泥臭さがなくシンプルでお洒落で洗練されているのを感じた。現代的な「手仕事」のひとつの領域がもつ雰囲気なのかもしれない。
100円ショップも街に溢れる一方で、このような場や、ブランドショップ、中古屋、オークションまで、個人の経済状況を抜きにしても、個々のモノへの興味や価値のおき方によって選択できるほど、商品の売買の場は多様化している。選択の余地が多いことは購入者側が試されている部分が当然ある。
実用の有無に関わらず、「手仕事」品というものが、今後経済的にどのような位置付けになっていくのか、生活のどのような場面に侵入し、大量生産の品々と融合していくのか、分離する一方なのか、その動向も日本文化をみていく視点に思う。
単純に「手仕事」を良いとするわけではないが、食料自給率低下の問題などを含め広げて考えていけば、全体を見据えたバランスがモノの世界には必要なのかもしれない。モノには様々な自然・社会的要素が絡んでくるのだと改めて思う。その中で目の前のひとつのモノへの愛着は尊いことだ。
雨の中、松本の街を散策。松本城近くにあった松本神社。松本市の神社巡りというHPによると、「松本城とは特別な由緒関係にある神社であり、歴代松本城主が祖先を祀った5社と若宮八幡を合祀し『松本神社』と改称された」とある。
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