2009年5月8日金曜日

阿修羅展

4月30日、大学が休講だったので朝から上野の国立博物館に阿修羅展を観に行った。すでに30分待ち。興福寺跡出土の玉や鏡、匙、刀子といった遺物は、あまりの混雑にじっくり観ることは断念した。

阿修羅像や他の八部衆像は、興福寺の博物館ではガラスケース越しで観た覚えがある。この展示では少し薄暗くした演出や、ゆとりを持った像の配置、直接どの角度からも見ることができる順路の構造など展示方法の工夫がよかった。数年前、同様に国立博物館で百済観音像やサテュロス像を直接に観た感動を思い出す。

これまで仏像は特に、厳かな雰囲気の寺で、あるいは山村を延々と歩いた先にある素朴な寺で観るべきだと思っていた。在るべき場所から離れて展示されることに違和感があった。美術品としての鑑賞ならよいが、と。だが今回、仏像そのものが持つ力は置かれている空間にそれほどに影響されないのではないかと感じた。改めて考えれば観る人間の内面が、身の置かれている空間に影響を受けるだけで。逆にむしろ仏像の力そのものによって空間が別次元へと変化しうるのかもしれない。

岡本太郎の「明日の神話」もそうだ。設置が渋谷駅に決まった当初は、あんな人混みよりも広島の平和記念公園のように多くの人が静かに祈りを捧げるような厳かな場所の方がふさわしく思えた。だが実際、初めて対面したとき、壁画の持つ圧倒的なパワーは場所の選択など関係のない次元にあることがすぐわかった。むしろ壁画の力によって渋谷駅の一部を異空間に変える。早朝のラッシュ時でさえ自然と祈りに似た気持ちが湧く、壁画の力に圧倒される。

阿修羅展は特別な期待を抱いて行ったのではないので、惹きつけられ素直に感動している自分に驚いた。阿修羅像の憂いのある悲しい表情に自然と手を合わせた。阿修羅の知識がないうちに、その表情から仏の慈悲ということが浮んだ。

私も含めて、これほど多くの人を惹き付ける仏像の力はなんだろうと思う。仏像に内在する力や美術品としての技術の精巧さ美しさだけでなく、それらが見る側の内面の欲求と合致するからだろう。阿修羅に向けようとあらかじめ持参した欲求ではなく、その場で自然に湧いたもともと自分に内在している欲求である。それは信仰心とは別の作用のような気がする。

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