2009年5月18日月曜日

野町和嘉 写真展「聖地巡礼」

恵比寿の写真美術館で、野町和嘉さんの写真展「聖地巡礼」を観てきた。

ムスリムの祈りを写した巨大な写真。イスラム教の信仰の激しさ、祈ることへのエネルギーに驚いた。祭礼の日には数百万人がメッカに押し寄せる。大渋滞も厭わず、テント村まで形成される。著作によれば圧死する人もいるほどらしい。生きることが信仰そのもので、先進国といわれる国の人間とは、生の前提が全く異なる。精神的な充足が何より尊いかを彼らは知っているのだろう。物質的な充足を追及する人間はそちらにハンドルを切ることに、憧れながらも後戻りする恐れを抱いている。その恐れは「正反対」を行く人たちへの無理解と敵意を生むのだろう。

野町さんの著書にはムスリムは約12億人、地球人口の約6分の1を占めるという。ムスリムの写真群を観たときの単純な印象からいえば、宗教問題について、国連の指針やアメリカ一国の対応が根本的にどれほどの影響を彼らに与えるのだろう、とため息が出てしまった。政治的な駆け引きと信仰とは別の次元のことであり、だがむしろ人間の絶対的な信仰心に、争いに結びつく要素や根源があるのだと思う。どのレヴェルで対話や相互理解がなされるべきか。

そのほか印象に残ったのが、ペルーに住む山岳民族のキリスト教の祭り。スペイン領になる以前の土着の山岳宗教がそのままキリスト教に融合したという。民族衣装とお面を被ったいでたちや独特の雰囲気は、キリスト教のイメージとはまるで違った。

それから、アフリカの大陸の砂漠に生きる人々の信仰の姿。そこでの野町さんのコメントに考えさせられた。彼らの命ががかっている泉は神によって命運を握られている、そこに仏教の「慈悲、慈愛」とは違う、神の「慈悲、慈愛」がある、というようなことが書かれてあった。信仰の形や思想と、風土とはやはり結びついている。

展示場で、ちょうど野町さんがトークショーを開いていた。そこで触れていたのが、日本人の宗教と自殺者数について。著作「祈りの回廊」の序文にも同様の言葉があった。日本は近代化の結果、「遊びと包容力に欠ける冷たい社会」になった。「日ごとに九十人もが自殺してゆき(年間自殺者数三万二千人。戦闘下のイラクですら、日々これほどの犠牲は出ていない~)~。」日本の宗教は宗教としての役目を果たしていない、と。日本の社会と個人にとって宗教はどのような位置づけにあり、可能性を持つのか常に社会状況と平行して考えていなくては。

インドの写真群は、10年以上前にガンジス川で見た光景と重なる場面が多かった。だが当時、いかに私自身が対象に違和感を持ち、距離をおいて客観的に眺めていたか、実感した。異文化との向き合い方について、野町さんのパターンには興味を持った。他の著作も併せて読んでみようと思う。

野町さんは自らムスリムになり、イスラム教の中に入っていった。日本文化との違いも含めて、違和感はないかとの質問に、それ程の文化の違いを感じない。ただ、自分は厳格なムスリムではないものの日本人であることとのギャップにいつも葛藤がある。そしてむしろそれを楽しんでいる、と言っていた。この楽しむという一語には、言葉では説明しきれない複雑な種類の葛藤があるのだと、想像している。

大学院の授業で異文化交流、異文化理解について発表することになり、現在準備中である。今回その軸に置かないが、このテーマにおいて宗教は重要な要素だと思った。

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