2012年5月12日土曜日

弱さをつかむ

先日友人が、人間関係でとても傷つくことがあったのだけれど、「人と自分自身の弱さとバカさを身をもって知ることができた。他人のダメさを上から指摘するような嫌いな人種にはならないですむ。」というようなことを言っていて、 この友人の貴重さを感じながら、ああと思った。ある文章を思い出した。“「凡夫」であることを徹底的に自覚する”―それは、けっして諦めでもひらきなおりでも努力の放棄でもない。


「浄土真宗でいう『凡夫』とは...
関西風に言えば『アホ』。
おのれの欲望に縛られて、しなくてもよいことまでしでかしてしまう愚かさ。
賢く振舞っても、どこかで抜けている生き方。
『わかっちゃいるけどやめられない』という意志の弱さ。
思いやりという仮面をかぶった自己愛。
いつも自分の利害が垣間見られているというヒューマニズム。
...煩悩から自由になれない存在。

浄土真宗が浸透した地域では...『凡夫』であることを認め合っている。
人は弱みを持っていて当然であり、それは恥でもなければ卑下することでもない。
『人の自然さ』なのである。」  (阿満利麿『行動する仏教』p.65)


自殺者を年間3万人もだしてしまうこの国にも、このような柔らかな思想があってどこかで根づいていたわけだが、それはともかく本書では、「凡夫」でありながら積極的に生きていく道筋を示していく。そこでの絶対的な条件は、

「凡夫以外のありようは不可能だということを徹底的に自覚する」。

わが身が「妄念」のかたまりだと納得する。それは自我にどのような問題が内在しているのか明らかにする。常識の限界に気づく。自己の有限性に気づく。関係性によって生かされているという目覚め、自己の「軟化」が起こる。そこから新しい生き方に結びつく、自己を位置づけなおす「物語」を受け入れるようになる。...そして「凡夫」の仏道は、

    「自他を平等に見ることができる知恵」
    「平等であって欲しいという願い」
    「人と人とが違うとはっきりわかるという知恵」 


...を生む。こうした知恵が、他者の痛みを知り、共感し、そして慈悲の実践を容易にするという*。 


仏道といわずとも、そのような知恵や実践に向かう道筋を、私とまわりの人たちの道の先にほのかな暖かい光を、と願う。まずは、弱さを“徹底的に自覚する”とはどのような方法でか。掲書からは離れるが、友人が「身をもって知った」というように、たぶん徹底的な内省以前に、人と徹底的に向き合う経験からだろう。痛みを伴いながら何度も。気づきはきっと、些細な日常に起こる。

そして私の弱さをつかんだとき、人の弱さを受け入れているか、私の弱さを周りのせいにしていないか、同時に問えている気がする。そして目の前に新たな転換がある。

そういえば幼い頃、お風呂の中や近所のお宮で、「明日から人に優しくなります...」とか、しょっちゅう改心を誓っていた。その後も、「これからの私は...」と、ただ同じことをくり返し、堂々巡りをしてきた。山に登れば、坐禅をすれば明日から変われる気がした。でも問題は「これから」でなく、今ここに、私そのものにあった。私を客観視して弱みを受け入れるのは、難しくて案外容易かもしれない。「人の自然さ」は、そういう類のものなんだろう。

(*そして人々の「苦」の原因を、因縁や自我にではなく、政治や社会構造に向けて追求し、行動に移していくことを説く。本書では、現代社会の問題に即した議論が展開され、仏教に関わらない人にとってもヒントが多く、読後に必ず心が強くなる一冊。



小雨で湿った男体山山中 空気が渦巻く 2010.8.






































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