2009年7月10日金曜日

村上春樹 『1Q84』

先週、一気に読み終えた。この人の小説は読み始めると、日常世界が時間的にも空間的にも重層的になって、日常の感覚が風景が全く変わる。普段見ていない部分に視点も思考も向かい、その奥まで求めていくような、伸びやかでしかも研ぎ澄まされた感覚。この感じがずっと続けばいいと思ってしまう。実際今でも続いているのですが。日常の片隅のある穴から、すとんと何処かに抜ける感覚。『ねじ巻き鳥クロニクル』に出てくる井戸のように。時空を越えて何処かに通じていくような入口が彼の小説にはある。

『ねじ巻き鳥~』を読んで小説の可能性を知った。想像力と言葉の力で心も意識も身も細胞も、とにかく根底からどこかへ動かされる。強力な救いになりうる、「癒し」とかそういった類ではなく。個人的には切実に必要な種類の小説なので、今回のようなブームになるのがよくわからなかったが、こんな時代の要請なのかもしれない。

『1Q84』は、宗教についてももちろん考えさせられた。それから「記憶」がもつ力についても。私の内面にも、私を離れて外へも向かう過去の「記憶」の力。記憶の共有、復活、再活性化、独立、、。

それから何より単純に、愛について。驚くほど素直に感動した。愛は最も確固としたものである、そんな気持ちになった。救いようのない状況でも「愛があるから生きていける」とか、「この人のためなら死ねる」とかそんなことを、主人公はきっぱりと言ってのける。実際会えずとも(主人公は20年もその相手にあっていないのだ)、確かな愛に基づいた強い気持ちは、何らかの形になって相手に伝わるとか、そんなことが信じられるような希望を素直に抱いてしまった。

どうなのだろう、そのような人間同士の強烈な結び付き(意識内で熟成され表面化しない、だからこそ強烈な結びつき)は、人間の意識を超えて、世界の他の要素をも包括したり凌駕するような力を持ちうるんだろうか。結局、人間の意識内だけの事なのか。こんなテーマを真剣に考えたことはなかった気がする。愛や性について、それなしでは人間の本性などわからない、そういえば恩師も言っていた。

だが、これらを想像力の介しない言葉で解釈したところで、どんな意味があるのだろう。表現という意味において、小説家や芸術家の可能性はこの辺にある気がする。とても羨ましい。

0 件のコメント:

コメントを投稿