2009年7月17日金曜日

城の解体

経済難もあって、蔵書の多くを売りに出している。本はなかなか手放せなかったが、必要になったら手に入れればいい。10年以上こんな生活を続けていると、蔵書は増える一方で、クローゼットの中、ベッドの下にも進出し、本棚が先日壊れた。書き込みや線引きのはげしい物は出せないけれど、比較的綺麗な哲学、考古学の専門書の類がたまに売れる。(AMAZONの手数料、こんなに高かったっけと思う。)
CDや服、持ち物も徐々に片付けよう。身辺整理をしておこうという気持ちもはたらいている。自分の城の解体といった感じである。

私は、イニシエーションをせずに歳を重ねた人間の典型なのだと思う。自分の城を築き、城壁を固め防御していく。愛するモノを囲っておく。犯されることのない聖域のように。社会の何処に出ても、この城に戻り、愛するモノ、書籍群に向き合えば、最も尊く安心できる場所を確認できる、といったような。それが真でないのはわかりつつ。人生の直接経験という意味において。

死ぬときには身辺に殆ど何も残さないような、そういう生き方に向かうのはどうだろう。所有欲を失くしてもモノへの愛は健在だろう。

部屋に蓄積しているものをひとつずつ解体し、心身を軽くしていく。だが、丸山真男、今西錦司、三木清、加藤周一、、全集、小林秀雄、レヴィストロース、フッサール、イリイチ、、我が青春の書籍群、今でも捨てられないものはある。何度でも立ち戻る、まだ私には必要なもの。こんな風に迷いが常にある。

イニシエーションを経ずに個室に篭る若者に指摘されるのは、直接的なコミュニケーション、(言葉を解さなくても成り立つようなそれも含めて)の欠如であろう。その尊さは理解している。書籍を介してのコミュニケーションが、いかに深いところでの通い合いであるか、そのことも同様に信じている。

それゆえ、現在インターネットは、新たなコミュニケーションの回路を開き、個人の城の構築において重要な要素になっているが、文章を介した互いの精神と頭脳の苦闘を要する交流とは全く異なると感じる。

話は逸れたが、そう、城の解体は生の大切なものへと自分を向かわせるような気もする。

2 件のコメント:

  1. 嘴打ちみたいですね。
    もしくは守から破への移行でしょうか。
    手放すというのは何につけてもむつかしいものですね。

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  2. 殻から抜け出すみたいです。
    守とは真逆にやってきた気がするのに、結果的に、自分本位→自分を守ることになっていたようです。社会科学をやって、社会全体を人一倍考えているつもりになっていたけど、結局は何の介入もしてなかったし、それゆえ見えてもいなかったということです。

    急な思い付きではありませんが、これからどうしましょう、と。徐々に移行します。

    本当に手放すのは精神のある一部を切り捨てていく感じです。そのモノに拠る、自分の期待とか可能性とか。ほんとはそんなところにはないのですが。

    でも、捨てても離れても、行為としては結局、同じことを繰り返す気がします。学への新しい意欲は湧き始めてるし。根本は変わらないものです。取り巻くものや土台が変わると何が変わるのかは楽しみですが。

    ただ、生活力?と社会性、実行力、鍛えなくてはと思います。

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