2009年7月12日日曜日

天皇制と宗教

土曜の大学院での発表内容は刺激的だった。発表者のレジメや発言が的を得ていたし、資料も充実していて素晴らしかったせいもある。

池田雅之先生の「比較基層文化論」の授業なのだが、参加している学生の中には、(後で知ったのだが)大学の先生や中学の校長先生他、企業や公的機関で働く社会人の方も多く、(中国人留学生も2,3人)様々な意見が聞けるし勉強になる。発表の質も自然と求められるせいか、昨年と比べると先生も驚くほど発表内容に手厳しい。容赦なく苦言を呈するので、一年目の修士学生が毎回苦戦している。納得する指摘だが、実際言われたらきついだろう。その分、回を追うごとに充実した時間になっていると思う。

全体を通し、異文化理解についてがテーマなのだが、昨日は「西洋人の天皇観」がひとつのトピックだった。西洋人にとって「不可解な天皇制」、西洋の日本研究者にとって天皇制について一定の見識を有するかが試金石とも言われている。具体的には、小泉八雲とチェンバレンの「今日の天皇制論議に示唆を与えるような対極的な天皇観」について。神秘的宗教体験を通してのハーンの天皇制理解と、チェンバレンのシステムとしての天皇制。

発表者のコメントも的確かつ興味深かった。現代の見識ある日本人の考え方を垣間見た気がする。一般的な見方なのかとも思う。「天皇及び天皇制が法的存在である以上、その国事行為者としての役割を否定するわけにはいかない」と。それから、ハーンの天皇論に、感情を抜きにした客観性をも求める一方で、「臣民一人ひとりの内なる天皇の存在」「個人に根付く古来よりの信仰の源」を明かさない限り、チェンバレンのマクロ分析的なシステムとしての天皇制論は説得力に欠けると指摘されていた。

ここは意見を頂かないと、と私に顔を向けられたけれど、これまで天皇制を宗教との関わりにおいて徹底して考えたことはなかった。結局、時間切れになったので、来週までには現段階の自分の意見を、と思うのだが。神道の歴史や人々の信仰に照らして考えなくてはならない複雑で困難な問題。けれど今後も発言できなければならない問題。ナイーブな意見に陥らないよう、神道界の外部の人たちに向けて、説得力のある意見をと思う。

また、ハーンの宗教体験について、論理的な思考が入り込む余地のない強烈な宗教体験には恐怖さえ覚えると、コメントされていた。宗教に関わる人間になるということは、現代の日本人の宗教への拒否感のようなある種の感覚にも注意を払って発言、対応していくべきなのだと実感し、身が引き締まる思いがした。

それにしても、学術的な場で本質的なテーマをめぐって、様々な場で活躍する年配の方々の意見を聞けるのは、勉強になる。自分の発表や意見に対しても、的確に、予想以上の反応が返ってくるので、意識が高まる。大学院に身をおくことは貴重だ。来年以降の所属について、迷ってしまう。

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