2009年10月11日日曜日

ロメール「恋の秋」

早稲田松竹で先々週特集していた、エリック・ロメール監督の映画「恋の秋」を観てきた。ロメール監督の「四季の物語」シリーズ、完結編らしい。

素晴らしく面白かった。最近観た中でも一番。フランスのコート・デュ・ローヌ地方の秋の風景、ブドウ畑が美しかった。ブドウをつまみながら、おしゃべりしながら畑を歩く、主人公の二人の女性は楽しげで、幸せそうで。悩ましげな会話も、愉快でユーモラスに聞こえてくる。終始、世間話のようなのだけれど、テンポのよい会話で物語が進み、退屈せずに不思議と引き込まれていく。風に吹かれる髪や服を手で押さえるしぐさが、印象的に蘇る。ブドウ畑に吹く秋の風。

40代(男性は50代だったか?)の恋愛物語。中年男女が明るくて魅力的だった。観客からも穏やかな笑いが時おり聞こえた。映画はやっぱり単純なハッピーエンドが嬉しい。

二本立てで1300円(しかもラスト1本800円)という、値段も良心的な早稲田松竹。今後も頑張って欲しい。

2009年10月4日日曜日

映画 「Clean」

映画「Clean」を観てきた。マギー・チャン主演。彼女は、ジャッキーチェーンの「ポリス・ストーリー」(でよかったか?)シリーズによく出ていた気がする。私は「宗家の三姉妹」で好きになった。

この映画で彼女は、2004年のカンヌ主演女優賞を獲った。監督オリヴィエ・アサイヤスは数年前に離婚した元夫というのだから、彼女の魅力を充分に引き出せたのだと思う。マギーチャンは当時、40歳。年相応?の美しさがあった。ロンドン、パリ、カナダと舞台が移動し、フランス語、英語が飛び交い、スタイリッシュな感じ。

ストーリーは単純で、クスリ漬けの女性が、夫の死と出所を機に、子供と暮らすため再生していくというもの。だが、ラストは素直に感動的だったし、主人公と彼女を支える義父、息子を演じる俳優たちが魅力的で、それだけでも満足だった。息子(子役本人も)がまた可愛いくて、賢い。母に反発しながらも、母の話に耳を傾け、夢を後押しする、背中を押してくれる。母も、息子を子ども扱いせずにクスリに走る人間の心理などを話す。そこに信頼関係が生まれていく。

主人公が歌手という設定から、趣が音楽映画だったせいもあり、サントラがとても印象的だった。ブライアン・イーノがエンディングも含め3曲、提供している。マギー・チャン本人も歌う場面があり、低くて独特な声で味があった。

シアターイメージフォーラム。この日、2000円で会員になった。以後の作品も1000円で観ることができる。

ミヒャエル・ゾーヴァ展

ミヒャエル・ゾーヴァ展
波がうねる重厚な海も、よく目を凝らすと船に乗っているのが女性とゴリラだったりする。思わず微笑んでしまうというより、その皮肉っぽさに、ニヤリと笑ってしまう。登場する動物たちも人間も、のどかで可愛いのではなく、ユーモアや皮肉、哀しみまでもが漂っている。動物の喜怒哀楽の細かいところまで摑んで、注入しているんじゃないかと思う。筆の緻密さだけではない、繊細さを感じた。

そんな彼の絵が、絵本の挿絵になり、世界の子供たちが読む。大人向けの絵本というわけでもない。子供は、大人たちが思うよりずっと、他人の表情にも敏感だし、深い部分を感じ取っているんじゃないだろうか。それを前提に、子供をナメずに、複雑な心情、心の機微をも高い技術で表現する。大人対象の仕事と同様に、もしくはそれ以上に、全能力を注ぐ。相手を尊重している。そういう芸術家や作家をすごいと思う。人間の本質的な部分が見えているんじゃないかと思う。真剣に子供と向き合うお母さんたちも、違った角度からそういえる。

彼はかつて、ドイツ、緑の党のポスターも手がけていたようで、一連のポスター作品も面白かった。原書の絵本が欲しかったけれど、高額で断念。絵葉書2枚を購入。アクリル絵の具を使用しているらしい。油絵にも水彩画にもない程よい感じがあった。使ったことがないので試してみよう。



「21世紀の新しい環境観」

9月26日、ベルサール飯田橋で開催された、第19回 KOSMOSフォーラム「21世紀の新しい環境観」に行ってきた。財団法人花と緑の博覧会記念協会主催。
(フォーラムINDEX→ http://www.kosmos-forum.org/forum/00/index.html )

「大地と人」~地球生命を支える場~というのが、今回のテーマ。

哲学者の内山節さんの名をみて参加したのだが、地質学、地理学、アートなどそれぞれの分野からのパネリストの方々の話に刺激を受け、多角的に環境問題を再考する機会になった。

武内和彦氏の「ランドスケープエコロジー」―人間と自然の動的な関係をもとに、望ましい関係構築のための評価や計画を提案する研究分野―には興味を持った。彫刻家の小清水漸氏は、自身のダイナミックな作品を紹介しながら、大地と人との結びつき方の根源的なところを示してくれたように思う。内山さんによる自身の村暮らしについての語りとも通じていた。

そして、芸術家をはじめ市民参加型での、アートと環境保全の志向とが融合した活動、地域的自然の保存という今後の方向性についての議論は参考になった。全国で様々なプロジェクトが試みられており、その一端も紹介してくれた。

いずれの試みが成功と言えるのか、やってみないと分からないし、試みそのものに意味がある。現在のの環境問題は、そういう模索の段階なのだと思う。思想的にも実践的にも、その一致ということにおいても。

2009年9月22日火曜日

映画「湖のほとりで」

イタリア映画、「湖のほとりで」を観てきた。ノルウェーのミステリー作家、カリン・フォッスム「 見知らぬ男の視線」が原作。北イタリアの村が舞台。殺人事件が解明されていく過程で、事件に関わる人々の人間模様が描かれている。

のどかで牧歌的な村の風景のせいか、人の心の様々な側面を親密に映していくせいか、ミステリーという感じがしない。不思議な印象のまま、物語は進行していく。



事件を追う警部は、人々に行動の意味を問う。だが本人たちは、衝動的な行動と感情を説明できない。「わからない」と悩み、言葉にならないもどかしさを抱える。そんな感情が絡み合って出来事をつくりあげ、進行させていく。指摘できる唯一の動機も、決定的なものではない。

複雑な親子、夫婦の関係について、人々は明確な言葉をもたない、「あなたにはわからないだろう」という。事件は解決しても、最後までわからないところはわからないままだという感覚が残る。

通底音のように悲しさが流れている。そのせいか、ある表情や行為にみえる愛情や優しさが際立つ。殺された少女の、彼を思う恋人の、警部とその娘の…。決してハッピーエンドといえないラストも、警部のささやかな言葉と、妻と娘の笑顔にほっとする。

しーんとした湖の風景、倒れる美しい少女の死体、そして幼い少女が家並みを歩く最初の場面…構図もおそらく完璧で、澄んだ空気が伝わるように美しい。丁寧に丁寧に作られていて、繊細で、何だかため息が出てしまった。

2009年9月21日月曜日

アンリ・リヴィエール展

神奈川近代美術館の葉山館で催されているアンリ・リヴィエール展

フランスの浮世絵、ジャポニズムと聞いて、さっそく観にいってきた。今年に入り興味を持っていた文学のジャポニズムと同様、馬淵明子「ジャポニズムー幻想の日本」を読んで以来、絵画のジャポニズムも実際見てみたかった。

アンリ・リヴィエール(1864-1951)は、19世紀末フランス美術界でブームになったジャポニスムに影響を受けた画家・版画家。北斎や広重 らの浮世絵から、色彩や構図、表現技法を学んだという。リヴィエールは、美術史上、木版画の復興と多色リトグ ラフの開発に貢献しているそうだ。

リヴィエールの作品に並んで、構図が似ている北斎の作品も展示していて、そのため影響がすんなり見て取れる。エッフェル塔の建設過程を描いた、リヴィエールの『エッフェル塔三十六景』ともに、もとになっている自身、撮影した写真、それから北斎の『冨嶽三十六景』が展示してあるといったぐあいに。さらにはリヴィエールに影響を受けた、あるいは共通点があるという日本の版画家の作品も展示されていて抜かりがない。

対象がフランスの自然、田舎の風景だったせいか、色彩が心なし淡いせいか、日本の浮世絵よりも牧歌的で穏やかな雰囲気だった。並べてみると、日本の浮世絵の方が緻密で繊細、リヴィエールの版画の方がおおらかな感じがした。影絵とリトグラフで表現された、夜の海、星空がとくに美しかった。

彼は、「シャ・ノワール」というカフェで、ジャポニズムに出会う。当時、シャ・ノワールには芸術家や文化人、知識人らが出入りし、政治談議や芸術家達の新しい作品発表の場にもなっていた。そして、シャ・ノワールの主人、サリが文芸雑誌「シャ・ノワール」を創刊しており、リヴィエールは編集に携わることになったという。猫の絵が描かれたリヴィエール作のシャ・ノワールのポスターも魅力的。カフェで上映し、話題を呼んだという影絵劇も展示、上映されていて、美術館全体の演出がとても良かった。

それにしても、客が談義し、芸術家が集い表現をする、当時のカフェのような場は魅力的だし、羨ましい。

下田、海に入る




9月20日。南伊豆、下田の海。快晴、日差しは強かったけれど、涼しい風が強く吹いていた。両手足を付け根まで、思い切り海水につけて、歩き回った。そんなふうに長時間遊ぶうちに、沖へと前進、さらに波が強くなり、結局、衣類まで水浸しになった。水着を持ってくればよかった。サーフィンをする人たちのあいだに、水着の子供たちもいた。伊豆の海ならまだ海水浴が可能だったのだ。

強い日差しのなか、砂浜でしばらく寝転んでいたら、両手足が焼けてしまった。今年は日焼け止めとは無縁の夏だったのに。












自然の無限の動力を、全身で感じて、心が空っぽになった。そして、何もかもが満足だった。ずっと海に入りたいと思っていた。帰途についても酔っているように波の感覚が離れなかった、何度も甦ればよいと思った。

2009年9月13日日曜日

秋、充電




昨晩お世話になった、友人宅の八王子から海老名まで、友人一家とドライブ。相模原市を流れる相模川。日曜の午前中、河原ではたくさんのバーベキューをする家族連れ、河にはたくさんの釣り人が釣り糸をたらしていた。

友人の一歳の息子君と、手をつないで河原を一緒に歩いたのだけれど、石を踏む足裏への感覚も、小さな手を握ったこの手の感覚も、秋の風と空気と共に、一生覚えているんだろうと思った。ヤクルトみたいな飲み物を、お母さん(友人)からもらって、彼と一緒に飲んでいたら、急に、とても満ち足りた気持ちでいるのに気づいた。

皆で神社に寄ったら、ちょうど父が御祈祷。息子君は、父の姿を物珍しげに見ていておかしかった。社務所内を御機嫌で走りまわり、笑顔がいっぱいだった。穏やかな時間が流れていた。






午後は、愛車(自転車)で相模川目指し、1時間ほどサイクリング。山羊がいた。携帯撮影なので映りが悪いけれど。ひたすら草を食んでいた。畑とどぶ川の間の微妙な位置につながれていた。




相模三川公園。昨年は整備中だったけれど、広々とした芝生の素晴らしい公園になっていた。夕日を眺める絶好のスポットになっている。





海老名の田んぼも、もうすぐ稲刈りの時期。





曼殊沙華、好きな花。天上に咲くという花の名、だそう。




栗の林。立派な実がなっていた。今年は、渋皮煮にチャレンジしよう。

最近、空の色も空気も澄んでいて、月の光も眩しい。毎年、夏の終わりには、感傷的な気分になってしまう。だけれど、そうではなくて、この季節の自然の匂いや色、現象の隅々まで観察して、感じていくと、感情レベルとは異なるレベルの発見がある。自分の内面に籠もるのではなくて、対象とつながるということだ。そして、秋というこの季節への感情も、違ったものになってくる。

自転車で帰宅後、そのままランニングに出たら、体が軽く、いつまででも走れそうな程、調子がよかった。エネルギーが体中に充満している感覚。充電とはこのことか、と思った。


9月13日、大阪在住の兄夫婦に、第一子誕生。おめでたい。宮司にとって、初孫。名前の音に漢字をつけるのだとか。私はとうとう叔母になった。

2009年9月7日月曜日

戸隠神社

先月29日、戸隠神社を参拝。長野県戸隠、大学のゼミ合宿以来、約10年ぶりに行った。





夕方に参拝した宝光社。

宝光社近くの宿坊に泊まった。一室に御神殿があった。不動明王像もはいしていて、神仏習合の形態になっていると紹介されていた。戸隠には、全国からの講員の方々や、もちろん一般の参拝者も宿泊できる宿坊が多数ある。

お世話になった宿坊には、古い書籍がたくさんあって、折口信夫全集や柳田國男全集などがあった。その中から小林秀雄の対談集をお借りして、その晩読み耽った。坂口安吾、三島由紀夫との対談など、とくに面白かった。





奥社までの参道は約2キロ。しばらく歩くと随神門があり、杉並木が続く。雨上がりの早朝、木々の香りに溢れ、全てがみずみずしかった。美しい鎮守の森。濡れて歩きにくい場所はあったけれど、ひたすら歩き、気持ちが晴れやかになった。








奥社手前にある、九頭龍社。








参道の途中の川を渡ると、大講堂屋敷跡がある。







かつてゼミの仲間と恩師と歩いたのだが、その時、恩師が話したことを、同じ場所に来たときにふと思い出した。言葉は背景と、その時の空気と共にあるのだと思う。何気ないどんな言葉も、同じ空気に触れた瞬間に、ふと蘇ったりする。



10年前に、この木の中に入って写真を撮ってもらった、同じ木。




木の子供。道の終盤に出会い、なぜか心惹かれた。




戸隠神社、中社。ちょうど御祈祷がおこなわれていたので見学をした。座礼での御祈祷を見るのは初めてだった。




中社脇の宿坊で、父母が大学時代所属していた、能の会が毎年合宿をしていたそう。今年度の神社の参拝旅行も戸隠神社。とても御縁を感じる。また再び、参拝に来たい。奥社までのあの道をまた歩きたい。





中社の近くの脇道にいた猫。なかなか味のある顔をしていた。






2009年9月6日日曜日

兵庫県佐用町

8月の台風9号により、大きな被害を受けた佐用町で、仮設住宅への入居が始まったというニュースがあった。住民の方の暮らしに、少しでも快適さが戻ったのは少しほっとしたが、被害の痛みは容易く癒えないと思う。死者が18人、全壊住居が161棟という大きな被害に心が痛む。今回の被害の大きさは川沿いの町、さらに支流の多さという地形の問題もあるという。

災害から復興への道のりは、時が経つにつれ、報道もなかなかされにくくなるのが常だろう。だが、町役場のHPなどで、ずっと気にかけている。

私の本籍は兵庫県佐用郡佐用町。先祖の墓もその地にある。父の出身は兵庫県姫路市。祖母も晩年までそこで暮らした。数ヶ月前、父が家系図のコピーをくれた。それによれば、室町時代から明治三十六年まで、世襲で佐用町の神社の神職を勤めていたとある。ネットで調べると、その神社は今でも残っている。いつか参拝を、と考えていた矢先に今回の災害のニュースが入ってきた。

身近な川が突然襲いかかる恐怖は想像を絶する。また、従来の日常生活が戻るまで、復興には大きな物的精神的エネルギーが必要だと思う。少しでも早い、住民の方々の安心な暮らしの回復を願わずにはいられない。

2009年8月26日水曜日

恐山

8月22日、恐山。

硫黄臭が立ちこめる。空気がひんやりと涼しい。







死者と出会える場所。生と死とが融合する、あいだの場所。境内には仏像や人形、墓石があって、人々の様々な形の祈りに満ちていた。











賽の河原。湖なのに大海原のような、どこまでも続く気がする時空。




大地がいろんな表情をしている。







境内には温泉がある。参拝者の身体を温める。







宿坊で頂いた精進料理。朝夕と頂いたのだが、身体にとても合う。

朝の法要で、僧侶さんが仰っていた。生命はつながりなので、身近な縁を大切にするようにと。自殺は病気や生活苦が直接的な原因ではない、孤独になったときに人は死ぬと。自分の苦しみが誰にも伝わらないと感じたとき。

この場所は、祈りを捧げる多くの人たちと、死者の魂との強い結びつき、本物のつながりのようなもので充満している。自然がそれを包み込み、魂を媒介している気がする。だが、人間の祈りや精神が作り出し、さらに何世代も引き継がれていった、とても人間的な場所に思った。雰囲気は寂しいが、孤独とは無縁の場所。できれば何度も訪れたい。

目を閉じて座り、読経を聞く。すーっとした早朝の空気が心地良かった。

2009年8月16日日曜日

五色沼

7月に歩いた五色沼。雨上がりで木々や葉が土壌が潤っていて、シダ植物も広葉樹も森全体が生命で満たされている。歩き始めると徐々に感覚が開かれて、私自身も瑞々しいもので満たされていくような感じがした。




















森の中を歩くことが徐々に減っている。これからは意識的に増やしたい。栄養補給するように。心身はもとより、どんな事に対する思考にも必要に思う。原点でもあるように思う。






ダリ展を催していた「諸橋美術館」、「郡山市美術館」の現代アート展にも立ち寄る。環境も素晴らしく、内容も充実していた。

2009年7月28日火曜日

塔のへつり~会津若松

7月21日。湯野上温泉から「塔のへつり」へ。会津鉄道塔のへつり駅、観光地のはずだが駅は無人駅だった。ちなみに会津鉄道は緑が多く眺めが素晴らしい。





強い雨の中、つり橋を渡り対岸を歩く。足がすくんだ。





対岸にある石段を上がると、虚空蔵。愚問かもしれないが、人はなぜ岩の上や岩の中、あるいは岩そのものに祈るのか。山形の立石寺や映像で観た円空の修行場、それから島根の霊光寺五百羅漢、大分の臼杵の磨崖仏群などを思い出した。






会津若松へ。飯盛山にある厳島神社。説明板によれば主神は市杵島姫命。永徳年間に社殿が建てられ、別當は正宗寺。元禄十三年には会津藩主松平氏が神像及び土地を寄進。さらに「明治初年に厳島神社と改めたこの山を飯盛山と呼ぶ~」。





白虎隊の墓地方面から飯盛山を登るには、動く歩道があるらしい。御年寄りには配慮があって参拝もしやすくなると思ったが。他の寺社でも景観や環境の維持とバリアフリーの問題は悩みの種だろうと想像する。






厳島神社の右手奥に、「さざえ堂」(旧正宗寺・円匝堂)。寛政八年に建造。六角で高さ16メートル。昇降別々の螺旋型通路で階段がない。世界にも例がない名建築だそう。昔は三十三観音を、建物の中心部にスロープに沿って安置していたという。郁堂和尚という人が考案建立したというが、どのような意図があってか。








生まれて初めておみくじを引いてみた。誕生日別に引くおみくじ。かなりの長文だったが、終盤に気をつけることとして、

「初年時代の才能有無も中年に成るにつれ社会生活に馴れ過ぎるとその働きが次第に多方面に変化し最初の目的を放棄しなければならなくなり、滅亡(!!)を早めるから深く慎まねばならなぬ。」

とあり、

「殊に色情の点に付いて失敗が多いから、(そんなことはない!)良く注意し将来の幸運を迎える事を心掛けるべきである」

と結ばれていた。

鵜呑みにはしないが興味深く読んだ。それにしても性格など、思い当たる節が多いのは、星座占いのように誕生日別に分かれているがゆえか。