2012年12月14日金曜日

正倉院の針と七夕

ある発掘報告書に参考資料で掲載されていた、正倉院の長さ35㎝()の銅針に驚いた。(長短二系あり、19,5㎝の銀針、鉄針も、包み紙と共に伝世。)
平安期の七夕の儀式、乞巧奠(きこうでん)で使われたそう。ふたつの星の逢瀬を眺めつつ、女性たちは織女にあやかって裁縫の上達を祈願したとか。平安期、約400年のなかで形態は変わったものの、針に五色 の糸を通し、酒や肴を供えたそうで、神饌や祭壇についても、さまざまな文献に記録が残っているもよう。


針一本から考古学と神道の世界が結びつく。日本人の願いや風習、営みにかかわるのだから当然だけれど、一種の謎解き?に似た感動がある。 正倉院の針は、奈良国立博物館蔵。観にいきたいなあー。

写真:『2012 板橋区志村城山遺跡第5地点 発掘調査報告書』(日電産コパル株式会社、共和開発株式会社)

 

2012年12月10日月曜日

『壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び』

川崎アルテリオシネマにて、『壊された5つのカメラ パレスチナ・ビリンの叫び』を鑑賞。( http://urayasu-doc.com/5cameras/ ←予告編)土地と家族への愛、怒りに満ちた圧倒的なドキュメンタリー。現地ジャーナリストが、子供の成長とともにパレスチナのビリン村を映した5年間の記録。

オリーブを摘み、海で戯れる幼い四人の息子と妻との時間や、何気ない会話。村人たちの陽気な祭りや子供たちが遊びまわる姿―。そんな風景と並行して、日常を襲う暴力と死が映される。イス ラエルの入植地が徐々に拡大し、ビル群が平穏だった農地にせまり、不当に突然に土地が家が奪われ…そして、村人たちの抵抗に兵士が火炎瓶を投げ、銃を向ける。奥さんが洗濯物を干す背後に銃声が響き、子供の目の前で兵士が発砲し、父親が連行される。子供たちの見開かれた瞳が、目を覆いたくなる大人た ちの暴力をじっと見つめ、恐怖で固まっている。こちらも目をそらすことはできないと思った。

「怒りを前向きにしていくのは困難」と、不安の中で抵抗運動を続ける村の男たち。それでも、「人生を愛している」と笑顔で子供たちを抱きかかえ、「絶望の中でも気力を失わない」、「この土地が家族を結び付けている」と語り、奮起する。フェンス前に立ち並ぶ兵士に向かって、「こんなに小さな村をどうする。」「この土地で生きてこの土地で死ぬ。」と、丸腰で訴えかける。そして、毎週の非暴力のデモは、法を味方に、区画壁の撤去という「小さな勝利」をおさめる。

それでも、村人たちへの抑圧は繰り返され、傷が癒える前に、次々と傷が重なっていく。「忘れてしまった傷は癒すことができない。だから映し続ける」と語る、 ジャーナリストのイマード・ブルナート。彼の命がけの仕事、抵抗運動の場に立つ気迫と、家族への優しいまなざし、ナレーションの言葉が心に刻みつけられる。

肉体や技術による力は、一見たやすく解決を導くかにみえるけれど、破壊や人の死といった物理的な終結でしかない。たとえば子供や母親の繊細で深い悲しみ、 他者の痛みに思いを寄せて、言葉と思想、理性によって地道に解決する方法を追求していくことが、多くの現実と歴史、先人からの学びに向き合うチャンスを与 えられた現代人の義務のようにも思う。心と頭の成長がないのは虚しい。

2012年11月25日日曜日

『世界最古の洞窟壁画 35mm 忘れられた夢の記憶』

ヘルツォーク監督の『世界最古の洞窟壁画 35mm 忘れられた夢の記憶』を観てきた。

フランス南部のショーヴェ洞窟に描かれた、約3万2000年前の 壁画をじっくりと映し出してくれている。墨絵のような濃淡のある馬の連作は圧巻で、いなないている口まで写実した観察眼にも驚く。岩面の凹凸を生かした躍動感ある牛やサイ、ライオン…。個が浮き彫りになる、洞窟の奥まで続く小指の折れ曲がった手形。そして暗闇の中に揺れたであろう火の跡が残る。芸術と儀式の場として、美しい川沿いの風景の中に、ショーヴェ洞窟はある 。その「宗教性」を思わずにいられない。


興味深かったのは、現地の考古学者の語り口である。洞窟の内部構造や、壁画の重ねられた画の読み取りや、炭素年代法など、科学的手法を駆使しつつも、自らの洞窟内での体験を通して、感覚的主観的に、かつての人々を洞窟空間を、生きた対象として「今」「私」に引きつけ、独自の言葉を紡いでいく。文化人類学、哲学にも通じる現地の考古学の在り方がうかがえる。



なお、映像の追記として、ショーベ洞窟の30キロ圏内に稼働する原 子力発電所が映される。排水による水温の上昇で熱帯植物が、そして(白く変異した…)鰐が増殖しており、洞窟への影響を案じるよう結ばれる。 氷河時代も経てきたショーヴェ洞窟。原的なものからの強烈な問いかけがある。

2012年11月1日木曜日

お守り袋

兎と菊の花
満月と鳥と川
七五三シーズンに合わせ、新しいデザインのお守り袋が完成。今回は、沖縄の伝統工芸である紅型からモチーフや色の組み合わせなど、写真集を見ながら取り入れた。山吹色や濃いめの水色を想定していたけれど、対象がお子さん(~青少年の方々)というのもあって、できあがりは淡い色合いに。日本の伝統や風習から生まれた柄や植物の意味を考え、取り入れながら、今の時代の新しい要素を生かしたものにチャレンジしていけたらいいなと思う。一年間、あるいは願いが成就するまで手元においていただくのだから、愛着がわくような袋に―いつでも妥協せず心を込めてデザインしたい。行事ごとのポスターも、地域のあちこちに貼って頂いている。でも、まだまだ試行錯誤。発展させていきたいなと思う。

デザインをくりかえし何枚も試し書き

色のパターン
数年前に描いたポスター(色鉛筆





2012年10月29日月曜日

野田雅也写真展「Rebuild 大槌造船記」

新宿のコニカミノルタで開催中の、野田雅也さんの写真展「Rebuild 大槌造船記」を観てきた。震災から一か月足らずで動き始めた船大工さんたちの姿を追った写真展。

震災後の4月から時系列に写真が並び、キャプションには日時だけが刻まれている。時の経過とともに彼らの表情が明るく活気を帯びていくような気がした。大きな船に向かう、手足のずっしりとした踏ん張りと、豊かな表情。タバコをふかし笑いあう、弁当を食べる「日常」のひとコマひとコマ。男性たちの労働の姿は、肉体と道具さえあればといった自信と、仕事への誇りに満ち、失われたものや瓦礫を背景に押しやって、圧倒的な存在感だった。

素人でも興味深く観れる(!)完璧な構図と、印象的な色彩のコントラスト(淡い墨絵のような山海や全体の無彩色と、船の塗料やレールの錆の鮮烈な赤!)。それゆえ、映画のワンカットのようでもあり、またその奥に、厳しく悲しい現実のストーリーが感じられて、胸の奥まで迫ってきた。

そして、トーンが変わり、静謐さが漂う最後の二枚。花咲く桜の木の下に立つ若い船大工。こちらを見つめるたった一枚の写真である。存在だけで何かを語っているような。そして、海に向かって手を合わせる男性の姿を静かにとらえた最後の一枚に、祈るような気持になった。

現場の音が聞こえてくる写真群。31日まで。必見です。


(会場でお会いした野田さん御本人や山本宗輔さんにエネルギーをいただいた。迷うなら動いた方がいい。信頼できる方々とのちょっとした会話や交流だけで、次に進む勇気がもらえたりする。)

2012年10月19日金曜日

船田玉樹展

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「花の夕」 (1938)四曲一隻屏風180.0×359.3cm


9月2日、練馬区美術館で開催された、「生誕100年 船田玉樹 ―異端にして正統、孤高の画人生。―」展を観てきた。

   
*船田 玉樹 (1912~1991)は、広島県呉市に生まれ、広島洋画研究所で油彩画を学んだのち、速水御舟に入門、その後、小林古径に師事。 東洋の古典をもとに、シュルレアリスムの手法も取り入れ、多彩な作品を展開した。 

名も知らぬ画家であったけれど、私をよく知る陶芸家の友人に強く勧められ、どうしても行きたくなって足を運んだ。日本画の展でこれほど興味深く、感動したのは初めてかもしれない。展示室に一歩入った瞬間、巨大な屏風に描かれた満開の花に圧倒される。

枝が無数に伸びた桜や松の画は、試行錯誤を重ねた構図と独特な視点で描かれ、その繊細さと美しさに溜息が出る。一面の紅葉の画は、美しい赤のオーラをもわもわと発していた。植物や風景がみな霊性を帯びているようで、描き出された世界に吸い込まれ、しばし呆然となった。油彩画だけではない。小さなガラス絵やコラージュ作品の、色彩とかたちのセンスにときめき、魅せられる。

「もっと真裸になつて、泥まみれになり、のたうちまわつてよいのではないか。
どんなにしても君のものはなくならない。そうすることで生長するのだ。」

師である速水御舟の言葉にぐっときた。彼の一連の作品に通底する深み、激しさ、もがき、泥臭さと重なってるような気がした。そして、私自身の、どんなにしてもなくならないものってあるだろうか、何だろうかと思ったり。

2012年10月15日月曜日

厳島神社の能舞台、そして陶片

江戸時代、1605年に福島正則が常設の能舞台を寄進。国の重要文化財。


8月18日、強い日差しの中、朝のフェリーで宮島へと向かう。
島の店はまだ閉まっていて、厳島神社の境内や、満ち潮の浜をただ歩いた。宮島に来るたびに、20代の初めに祖母と訪れたときのことを思い出す。あれから10年以上経った今でも、牡蠣うどんを食べた店、珈琲を飲んだ店が変わらずにある。宝物館を通れば、「平家納経」がレプリカで、悔しがる私に、「平家納経」の絵葉書セットを買ってくれたことを思い出す。

そして、国内で唯一、海に浮かぶ厳島神社の能舞台―。能の舞台に立ち、謡の先生でもあった祖母が、一度は見てみたいと言っていた。ここでの薪能はどれほど神秘的だろうかと想像してみる。篝火の映る海と、山々そんな背景をも取り込んだ能の世界―。




そして、陶片。ほんの2時間程度探しただけで満足の収穫。潮が引くまで待てば、もっと拾えたはず。主に江戸期のものと思われる。中国陶磁も拾えるそうだから、また必ず行かなくては。



2012年9月19日水曜日

岩手県宮古市から釜石市へ 

大杉神社の例祭に参列、そして岩手県宮古市から釜石市にあるお宮を参拝。神職さんはじめ現地の方々にお話を伺った。車窓から時折見える美しい海―。山田町の男性が、「漁師でないけれど海から離れられない。津波に襲われても。ひと月離れると潮の匂いが恋しくなる。」と言った、その言葉を思い出し、はっとした。「祭りが あるから皆が帰ってくる」。日常、見失ってしまう土地の自然と人々と生活、神社、祭り…すべてのつながりを思った。

関口神社、大杉神社、鵜住神社、常楽寺、小槌神社、横山八幡宮を参拝。





山田町関口神社奥社。関口神社から塗装されていない渓流沿いの道を奥へ奥へと5キロほど。大きな岩の御神体と、地下には鍾乳洞があり、真っ暗な洞内を進むと…。(蝙蝠もいますが)とても神秘的な場所。






大杉神社例祭。獅子舞、関口剣舞…この日も賑やかな舞が続く。



大杉神社を後ろから見る。





鵜住居町へ。常楽寺跡。崩れた本殿とそこに流れ着いた瓦礫が堤防になり、墓地だけは守られたという。敷地の奥に本殿の再建が始められていた。




鵜住神社。階段上、境内から見おろすと、津波により建物の基礎だけが残る光景が広がっていた。本殿右下の板に、復興への願いが書かれた紙が何枚も貼られていた。






小槌神社にて。境内には火事による焼け跡が少し残っていた。今週末には例祭、神輿が町を練り歩く。「天然水 神明の水」は、震災時の消化、飲料水に役立ったという。




宮古駅近くの横山八幡宮。震災時、多くの方が拝殿、神饌所、参集殿に避難された。蝋燭、炭などが役立ったという。神社に備蓄しておくべきもの、災害時の問題点など神社の方の経験談やご意見を伺った。

2012年9月12日水曜日

「親鸞フォーラム」

「親鸞フォーラム」に参加。
2時間という短時間だったけれど、教育現場や地域社会、「秋葉原事件」などの現実問題から、子供たちや若い世代の抱える「生きにくさ」―その一点から、とことん深く掘り下げた議論だった。
日本の社会・教育現場の「異常さ」は、自殺率だけでなく、青少年の「孤独意識」率…そのほかの統計やヨーロッパの教育法との比較から、くっきりと浮き彫り になる。で、従来型の政治や教育の原理、やり方ではもう、社会の歪みや人間の痛みをなくす方向にはいかない。…そして、中島さんも尾木さんも様々に今後を 語る中で、宗教の可能性にも言及。
仏教には、人間や社会の危機的状況に風穴を開けるような世界観や言葉がある。神道にも可能性がきっとある。




追記メモ

政治経済、競争や効率性、能力の優越、世の中のそんな次元を超えたところに宗教はあって、存在そのものを問題にする。教えてくれる。だから、人「材」として 否定されたり、社会の中でどんなに自分の何かが削ぎ落とされても、自分そのもの他人そのものはなくならないし、尊いと気づく。そして、存在そのものは世界や自然との関係性の中にあることを知る。

2012年9月2日日曜日

ボランティアグッズ

瓦礫処理のボランティアのための必需品。急遽、2日間でそろえた。

①安全(長)靴:セーフティーブーツ
ホームセンター(島忠)で購入。3980円。1000~2000円台もネット上ではあるが、島忠では最安の製品。

爪先保護先芯あり。、靴底も鋼鉄入りのガラス片、釘などを通しにくい強度があり。(同社の製品で足甲安全靴もあり)(ミドリ安全株式会社)。どの種類もたいてい24.5cmからしかない…。

 AMAZONで検索すると、値段もタイプもピンキリ。瓦礫処理などの作業では、長靴タイプがベストだそう。AMAZONといえども、安全靴に限っては、注文から配達まで4~5日はかかるもよう。

新宿の東急ハンズ6Fのボランティアグッズコーナーにも、安全長靴ありとのこと。でもやっぱり、小さいサイズは無し。(2012.9.2現在)

セーフティーインソール(踏み抜き防止用)
ステンレス板使用。当初、長靴(レインブーツ)に入れて安全靴にしようと思い立ち、AMAZONで購入。23センチのみ、1200円(他のサイズは1500円)。爪先、上部が保護されないのが難!?私は上記の安全靴がゆるゆるなので、本製品をさらに入れて履くことにした。

③防塵マスク 
5枚入りで864円。「3Mフィルターマスク」こちらもアマゾンにて。

④防塵ゴーグル
1023円。山本光学株式会社の製品。男女兼用。私でもぴっちりフィットします。マスク、ゴーグルともに多種、販売されている。

 ⑤ゴム手袋
写真にはないけれど、強度のあるゴム手袋。ホームセンターにも多種、販売している。


以上のグッズの使い勝手はどうか、ほかに「あったらいいな」があれば、状況によりけりだとは思いますが、活動後に報告します。


2012年8月19日日曜日

旧満州 公主嶺神社 (追記)

戦前、私の先祖が奉仕していた、旧満州の公主嶺神社。神奈川大学の海外神社(跡地)に関するデータベースに写真が載っていた。今、この地に行っても、当時の神社を知る手がかりは何もないのだろうと、跡地の写真を見ながら思う。

3年前に書いた「公主嶺神社」についての記事に、コメントをいただいていたのを、今さら発見した。池田宮司の後に就かれた、森安忠宮司様の御子孫の方だった。宮司様はその後、広島の厳島神社などでご活躍されたとのこと。気がかりだったのでとてもうれしく拝読した。

とても失礼なことをしてしまった。あらためて返信を書いたのだけれど、お読みいただけたらと願うばかり。

2012年8月7日火曜日

南三陸町、気仙沼市にて


7月18日~19日、宮城県本吉郡南三陸町および気仙沼市を訪ねた。県の神道青年会主催のプログラム。今後の支援活動の在り方や神社での災害対策を考えるという目的。2日間、宮城県の八幡神社、山内義夫宮司様に御同行いただいた。道中、仮設住宅での生活状況や、震災前後の街や水産業のようすなどレクチャーして頂いた。今回はかなわなかったが、田束山の山頂から、海岸線を見せたかったと、宮司様がしきりにおっしゃっていた。次回はぜひ訪れたい。

宿泊は、避難所にもなった南三陸町「ホテル観洋」。夜には、現地の神職さんたちと懇親会。神社再建の御苦労から、復興計画や支援活動への御意見までいただいた。通常、伺いにくい震災にかかわる質問も気軽に投げかけることができた。貴重な御縁に感謝した。




高台より津波の被害を受けた今泉地区のようす。命からがら逃げたという山内宮司さん。

今泉地区を見渡す高台にある小学校に立つ碑
“「でんでんに逃げよ」その教えを伝えたい”


そして、気仙沼市波路上岩井崎の琴平神社において正式参拝。清原正臣宮司様が、震災当日の生々しい被災体験を語られる。そして普段の神職としての地域の人々との関係づくりや、近隣神社同士の連帯が、復興の過程で重要なはたらきをしていると教えられた。御祈祷のはじめに宮司様みずから奉納された、郷土芸能である法印神楽の太鼓と謡が、心の奥まで深く響いた。







どこかユーモラスな狛犬








琴平神社から徒歩で気仙沼湾へ



南三陸町歌津の町立伊里前小学校にも訪問。広々とした天井の高い木調の校舎内。予想もしてなかった快適で気持ちの良い空間に驚いた。兵藤文隆校長先生より、震災当時の避難状況、被災状況を伺う。そして、38世帯の仮設住宅と2校とが共存する学校の現状について御説明いただく。

 阪神淡路大震災後、数年後に不登校の児童が増えたことに触れ、子供たちをよく観察すること、心のケアについての長期的課題を熱心に話された。スクールバスでの登下校で、寄り道ができないこと、運動不足…。スクールバス到着の校内放送が流れ、校庭で遊んでいた子供たちが、メールの約束をして別れる声にハッとした。子供たちの日常。当時の私の日常を思い出し、重なった。


そして、様々に状況を設定した毎月の徹底的な避難訓練、子供たちへの「ふるさと教育」。地域の大人たちを対象に、郷土史などを学ぶ「たつがね学校」の開校など、復興途中の厳しい状況下で 通常でも困難な試みをされていた。地域コミュニティにおける学校の役割と今後の街づくりを見据えた実践。刺激を受けた。


小学校の麓にある仮設商店街。幟が風ではためいていた。

伊里前小学校校舎

二階のベランダからの風景。校庭の半分に38世帯の仮設住宅が並ぶ

図書室。寄贈の綺麗な本が並ぶ。広くて明るく解放的な小学校の内部に驚き、感心。
 

南三陸町の語り部ガイドさんの御案内で、市街地を視察。そして、今年2月にオープンした仮設商店街「南三陸町さんさん商店街」へ。30店舗の現地業者さんがはいっている。特設会場では、震災を記録したパネル展示も。ガイドさんから写真スライドで震災当日の詳しい解説をいただく。言葉とまなざしから、親しい方々を亡くされた痛みや、震災を風化させまいとする強い御意志が伝わってきた。







点在する仮設住宅地のようすや、海沿いにある各集落の跡地、瓦礫の山、取り壊しを待つ建物から、復旧もまだこれからという印象を抱いた。同時に、現地の固有で豊かな自然、郷土文化と、人々の生活との親密な関わりは、復興の土台や契機となることに気づかされた。そこでの神社の位置づけや機能も再考した。

復興が進む中、表面化しない被災地の方々の生活や心の問題は、多様化し増加していくことと思う。可能な限り現地の方々の声を聞き、できることを模索し続けたい。この地での学びについて、周囲に伝え問題提起すること。実践につながるよう、議論を重ねること、他分野の人たちとも情報交換や連携をすること。現地を「訪問」した者の責任を思う。そして、お世話になった皆様への御恩返しをしたいと思う。


学校の校庭に集められた瓦礫の山




伊里前小学校への坂の途中から見た海、街。線路の高架が壊れたまま残る
職員の方が避難を叫び続けていた防災対策庁舎前。バスが数台止まり、祈りを捧げる人たちの姿が







ところどころにメッセージや千羽鶴など。世界に向けた支援への感謝の言葉も。




いわき市にて 「千度大祓」

7月16日、福島県いわき市のアクアマリン福島にて、東日本大震災「慰霊祭」、復興祈願「千度大祓」が斎行された。

夏の強い日差しと心地よい海風が吹く中、慰霊祭ののち、かがり火の点火、放生式が行われ、そして全国からの神職50名、國學院大学の学生さんたち54名、そして地元福島の、全国からの参列者の方々とともに、大祓詞を十巻、奏上した。

諸々の罪や過ちを祓い清める大祓い… 奏上しながら一瞬、さまざまな思いが込み上げてきて涙腺がゆるんだけれど、心を立て直し、そして無心になって奏上した。詞が祈りになって、福島の大地や海、草木、そして震災で亡くなった方々の魂に届きますようにと。

参進して斎場の丘を下るとき、すーっと静かな気持ちになり、まわりの空気と風景が変わった。

控室で言葉を交わした女性神職さんは、兵庫県からはるばる参加したという。同じ思いをいだき集まって、ひたすらに祈る。共感の場。それを肌で感じた。

震災の年に続き、二度めの開催。呼びかけから準備まで、主催者の方々の御苦労を思うと同時に、このような祈りの場にいられたことに感謝した。第三回、四回…と年毎に開催の意味も変わるのだろう。毎年、変わらぬ思いでこの場にいられますように。



アクアマリン福島、三連休最終日、家族連れでにぎわっていた
神籬や斎場の準備をする主催者の方々



2012年7月21日土曜日

「協働社会へのチャレンジ~被災地における社会関係資本を活かす試み~」

7月14日 専修大学で行われたシンポジウムのようす。
昨年第一回めと同様、内容が充実しているのはもとより、現地で活躍されている登壇者の方々の熱意が伝わり、会場の雰囲気もとてもよかった。

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.345705268843804.80737.100002130027055&type=3&l=533907b013





南三陸町、気仙沼市 (FACEBOOKアルバム)


7月18~19日、神道青年会のプログラムで、被災地を訪問。

FACEBOOK上でつくったアルバムをためしに載せてみた。
詳細は後程アップしなければ。 
(写真をクリックすると拡大、コメントが表示されます。)

http://www.facebook.com/media/set/?set=a.347756921971972.81422.100002130027055&type=1&l=07049d38f9

2012年7月12日木曜日

齋藤茂吉


けだものは 食べもの恋ひて 啼き居たり 何といふやさしさぞこれは  (『赤光』 大正一年) 



先月、『茂吉再生―生誕130周年 齋藤茂吉展―を見たのを機に、歌集をぱらぱらと読む。十代の頃読み、心に残っていた歌人、齋藤茂吉。医者として多忙を極めながら、その日、その瞬間を歌に表現していく生き方―。

『赤光』、『あらたま』、情念、生命―歌の底に流れているイメージは、彼が精神科の医師だったことにも起因するような気がした。人間の精神と向き合う目は、おのれの心の深奥をもじっとみつめ、それを写実することで正常を保ち、生き延びてきたようにさえ思える。隠そうとしても心情が滲み出てくる歌の数々は、ときに痛々しい。生きることの痛みが溢れ出て、観ているほうの痛みと重なっていくような気がした。

そのなかで、3年ものウィーン、ミュンヘンでの留学、ヨーロッパ訪問の歌からは、異国の地での茂吉の胸の高まりが伝わってくる。


空のはて ながき余光たもちつつ 今日より日が アフリカに落つ (大正10年 紅海)

奴隷らも 豪富のひとも かぎりなく 生を愛しみて 此処につどひき
(大正12年 ポンペイ 遺跡を訪ふ)

 
しかし、留学中に実家の脳病院が火事で全焼、多くの死傷者を出す大惨事となった。その後の厳しい再建の道のり…欧州の留学先から送った、書籍数千冊の焼失。


焼けあとに われは立ちたり 日は暮れて 祈りも絶えし 空しさのはて (大正14年 焼けあと)



さらに、その後も続く苦難―戦時の文学者への責任追及。夫人のスキャンダルと別居。30歳下の弟子との恋…諦念と恋情で葛藤する苦悩の日々。老いゆく焦りと哀しみ。病との闘い。世間を離れ、静かで孤独な故郷、東北での療養生活―



わが体机に押しつくるごとくにしてみだれ心をしづめつつ居り  (『暁紅』 昭和十年)

若人の涙のごときかなしみの我にきざすを済ひたまわな  

山なかに心かなしみてわが落とす涙を舐むる獅子さへもなし (『暁紅』昭和十一年) 

とめどなく 心狂ひて 悲しむを いだきて寝し われに聞かしむ (『寒雲』昭和十三年)


―何時でも、そして死の前年まで歌をつくり、衰弱し死にゆくおのれ自身の生を写し続けた(昭和二十八年、71歳で没)。


印象的な写真があった。晩年、故郷、東北の川べりに座り込み、遠くを見つめる横顔と、雪山に立ちすくむ孤独な後姿である。


最上川の 流のうへに 浮かびゆけ 行方なきわれの こころの貧困 (『白き山』昭和二十二年)



展示では、少年時代と老年に描いた動植物のスケッチもあった。素直で穏やかな心、微細な部分にまでいきわたる観察眼による描写―。写実性と主観の表現(「写生」=生を写す)を追求した茂吉の精神が表れていた。そして、茂吉の波乱の人生の末に、少年時代に通じる心の安らぎをみた気がして、なんだかほっとした。



「神奈川近代文学館」―港の見える丘公園を抜けてたどり着く閑静な館。ふらりと散歩するにもよい。遠藤周作、小泉八雲展なども心に迫る充実の内容だった。

2012年7月7日土曜日

三輪山 ~追記(大神神社宝物収蔵庫)


大神神社の宝物収蔵庫には、山の神祭祀遺跡出土のミニチュア土器(土製模造品)、拝殿東方の禁足地出土の子持ち勾玉、狭井河出土の須恵器(横瓶、高坏、はそう、台付長頸壺、提瓶)を展示していて、見ごたえがある。

酒 造道具を模したミニチュア土器のセット(杵、臼、柄杓、案、瓢…)は、『延喜式』の記述から、農耕儀礼や酒造儀礼にかかわる祭祀遺物と考えられる。そして、三輪山の神である大物主の神の酒神としての性格の一端が推測される。

また、須恵器の出土から、三輪山の祭祀を担った太田田根子の伝承と、出生地である大阪府和泉陶邑(すえむら)古窯跡群の関係がこの地において、浮き彫りになる。


大場磐雄 『まつり 考古学から探る日本古代の祭』
古谷毅 「奈良県三輪馬場山ノ神遺跡の祭祀考古学的検討」 ほか参照。




大神神社 二の鳥居
大神神社 拝殿


三輪山 ~山麓からの祈り

狭井(さい)神社―三輪山の登拝口がある―
今年五月、三輪山を登拝した。山そのものが御神体のため、近年まで禁足地だった。現在では、写真撮影、飲食、草花土、石の採取などが禁じられている。

山頂の「奥津磐座(おきついわくら)」は、標高467,1m。狭井神社の登拝口から、途中、禊場もある三光の瀧~中津磐座(なかついわくら)~烏山椒の林~椎・樫の樹林~高宮(こうのみや)神社と続く。片道40分ほど、なだらかな山道を登る。川沿いを清掃する人たちの姿もあり、よく手入れされた美しい自然が残る。

すれ違う「登拝者」の人たちと挨拶を交わし、ふつうの登山さながら。素足のまま黙々と登る人もいれば、友人同士、家族、カップルでおしゃべりしながら楽しげに歩く人たちもいる。奥津磐座では、講の人たちであろう一行が神饌を並べて供え、手を合わせていた。


―かつて古代人は、麓から祈りを捧げた。西山麓の「馬場山の神遺跡」をはじめ、山麓各地で発見された祭祀遺跡が、それを物語る。神道考古学を提唱した大場磐雄の著、『まつり』にもそのことが書かれている。

「古代人はこの神聖なお山にたいして、麓の随所に斎庭をもうけ、この霊を招いて奉斎した」。

―そして仏教の伝来により、山麓から山頂へと、山の祭祀のかたちが変化していく。

「日本の山崇拝の初期にあっては、山麓奉祀が主であり、後世仏教が習合してから山頂に登拝する風習が起こったと考えている…親しく山頂をきわめ、山霊に接するを目的とすることとなった」。
 
その象徴的な例が、日光男体山の祭祀である。栃木県宇都宮市の臼ケ峰という丘に鎮座する二荒山神社は、日光市の男体山を遥拝(ようはい:遠方から神のいる方向へ拝む)する神社でもあるという。一方で、男体山山頂の祭祀遺跡には、多くの仏具が出土している―。


三輪山を登りながら、遥か遠方から拝んだ人たち、麓の磐座からこの山を崇めた人たち、最初に禁足の山に入り、参拝した僧たちのことを思った。徐々に、気軽に土足で踏み入れることが、後ろめたいような畏れおおいような気持ちになっていった。 「親しく山頂をきわめ、山霊に接する…」。どれほどの覚悟や目的があっただろう。

時を経て、祭祀や祈りの形は変わる。人によって信仰の在り方もさまざまだ。ときに私をその場所に埋め込み、何かを求める。一方で、祈りの場そのものを客体化して「観光」する。 「聖地ブーム」はその両側面を含んでいるだろう。

実際、人間の在り方は変われど、多くの霊山や聖地はそのままに存在している。その尊さを思う。せめてその場所に踏み込んだとき、祈りの歴史のなかで、私の立ち位置を自覚しよう。心身を澄まして、古代の人たちへの崇敬の念をこめて。

磐座神社―少彦名の命を祀る。山麓にある辺津(へつ)磐座のひとつ。自然石のみ、社殿はない。

2012年6月28日木曜日

「津波供養絵馬」

今月16日の社叢学会の定例研究会で、國學院大学の茂木栄先生から、「津波供養絵馬」についてのお話があった。

岩手県釜石市鵜の住居町の常楽寺には、明治29年の津波で亡くなった家族を供養するために、近親者が奉納したという絵馬があった。 茂木先生によると、死者とともに津波以前に亡くなった家族も描き、絵馬のなかで冥界での家族をつくるのだという。

岩手県立博物館の学芸員の方が撮ったという絵馬の写真が数枚、披露された。明治期のものだが、江戸絵風で端午の節句に一家が団欒する様子などが描かれている。髪を結った男女の優美な動き、子供との楽しげな様子と、鮮やかな色彩が強く印象に残っている。だが、今回の津波で常楽寺も大きな被害を受け、「津波供養絵馬」も境内にあった慰霊碑も流失してしまった。

柳田國男の『雪国の春』(「豆手帳から」)に、常楽寺の供養絵馬について詳しい記述があると紹介があった。大正9年、40日間の東北東海岸の旅を綴った記録である。

斯うして寺に持ってきて、不幸なる人々はその記憶を、新たにもすれば又美しくもした」。 

深い悲しみの中、親しい人の生前を想い、死後の穏やかな幸福を願い、理想的な冥界を筆で描いていく。そして、その絵を神仏に奉納する―。死者を送る、心を込めた美しい風習に深く感じ入った。同時に、当時の人たちの死生観も垣間見る気がした。


*柳田國男『雪国の春』

筑摩書房の全集2 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480024022/     

 角川文庫
http://www.amazon.co.jp/%E9%9B%AA%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%98%A5-%E6%9F%B3%E7%94%B0%E5%9B%BD%E7%94%B7%E3%81%8C%E6%AD%A9%E3%81%84%E3%81%9F%E6%9D%B1%E5%8C%97-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9F%B3%E7%94%B0-%E5%9B%BD%E7%94%B7/dp/4044083029


2012年6月26日火曜日

「人の惑星」展


チラシに映る一枚の写真に惹かれ、石川梵さんの写真展、「人の惑星」 を観た。

アフリカのリフトバレー、アラスカの氷河ダイナミックな自然の空撮写真が会場を取り囲み、人類が生きるフィールドの広大さと限界を意識する。そのフィールドで人は祈る。フィリピン、インド、ケニア…そして日本、。世界各地での祈りの姿を映した多数の写真が並び、品川のビルの一角に、どこか特別な神聖な空間を創り出していた。

ケニアのある村での若者のイニシエーションの儀式、人々が神憑り、トランス状態に陥る祭り土着の信仰の激しさに圧倒された。神の宿る、神に近づく大地へと身も魂も捧げているような。このフィールドに存在を刻み付けているような。

昨年訪れた北インド、ラダックの祭りの写真にも釘付けになった。舌を切り落とさんばかりの僧を前に恐れおののく人々、祭りの熱気。人気ない僧院をめぐるだけではまるで見えてなかった、あの土地の宗教―。

なにより、アンデスの聖なる山アウサンガテ(標高6300超!)を登るペルーの女性たちが、強烈に印象に残っている。鮮やかな民族衣装を身にまとい、危険な氷 山を素足にサンダルで登り、祈りをささげる。高いところに登るほど、願いがかなうという。それゆえに死者が後を絶たない、命がけの祈り。儀式を見守り、涙を流す女性の横顔に吸い寄せられた。

この惑星のなかで、自然、大地、村の共同体、他者と私とを深く結びつけるのは、物理的な距離も 生死の境界をも超えたスピリチュアルな、究極に肉体的な祈りの部分だと、彼らは教えてくれる。私は何てさらりとした信仰の下で生きているのだろう。 
  
石川さんの視野と活動範囲の広さには驚嘆する。空撮、そしてフィリピン、レンバダ島のクジラ漁の撮影では、クジラの声を聴くために海にもぐる。観る側も、ダイナミックな地球の動きと現実への、同時間的にさまざまに生きる人々へのイマジネーションを掻き立てられる。





品川 キャノンギャラリー

石川梵さんのブログより写真展のようす  
http://lamafa.blog38.fc2.com/blog-entry-107.html


著書・写真集 (の一部)





2012年5月27日日曜日

東北の手芸工房より

「サンガ岩手」のHPで、被災地支援の新商品が紹介されていた。東北のお母さんたちの工房で作られた手芸品である。

HPには工房の様子が映った写真があって( http://sangaiwate.org/people.html )、お母さんたちが机を囲んで作業する姿がとてもいい。昔観た映画、『キルトに綴る愛』のシーンを思い出した―女性たちが大きなキルトを広げて、それを囲んで針を持つ手を動かしながら、昔の恋愛話に花を咲かせる―。女性たちそれぞれの生活の事ども、人生の物語が織り込まれ、彼女たちの語らいとコミュニケーションの中で作品が仕上がっていく。そんな背景をもって生まれてきたモノに、私は心が惹かれる。

私自身も絵を描いたり裁縫や料理をすると、手元に神経が集中し、心が落ち着いて穏やかになることがよくある。できあがりまで、手作業ゆえの楽しさと喜びがある。そして、何にしろ生産活動、仕事によって見知らぬ人とつながる感触は、お互いに(!)プラスの喜びだと思う。

そんな「手仕事」の場を、東北の被災地に設置し、バックアップしている「サンガ岩手」。お母さんたちの心と生活に寄り添う形で、活動を継続、展開させている。今年、宗教と震災支援についてのシンポジウムで、代表の僧侶である吉田律子さんの話を伺う機会があった。

…行動の第一歩、まずは個人から始めることは可能だし、組織を介さないからこそ迅速に対応できる。今からでもできることはたくさんある。「宗教者」はとにかく現場に立つこと、人々に寄り添い、話を聞くこと…その熱意と、迅速な行動力に心底敬服し、被災した方々への共感にあふれた言葉に、胸が熱くなった。

工房の品は、ネット販売の他、現地でのバザーで定期的に販売している。また、量を問わず全国で売ってくれる個人、団体を募集している。地元のバザーやフリーマーケットで出店してみるのも、被災地への支援活動になる。まずは、個人で少し購入して手もとに置くのもよいかもしれない。利益があるのは何よりだけれど、そんな個人のささやかな気持ちが、女性たちの「手仕事」をいっそう豊かなものにして、活動そのものを支えていくのだと思う。

「サンガ岩手」 HP → http://sangaiwate.org/

2012年5月13日日曜日

素焼き土器

2011.9


北インドの街、パトナの路上にて。山のように積み上げられた素焼きの土器。食堂やホテルでは、ガラスやステンレス、鉄、アルミニウム製の器が普及しているようだが、こんなふうに売られているのを旅の間よく見かけた。屋外のチャイ屋などでは、使い捨て容器として使われていた。ヒンドュー教の儀式にも装飾された土器が使われるそうだが、貯蔵用(とくに貯水用)の壺が一般的だそう。

(上の写真の丸い中型の壺?はどのように使うのか。口が閉じられ、貯金箱のような切込みが入っている。)




南アジアの考古学研究者、上杉彰紀さんのHPのコラムにインドの土器制作の工程が詳しく掲載されていて、とても興味深い。かつての日本に普及していた土師器に、色も手触りもよく似ている。土器作りの職人集団、商人...そしてこんな路上の風景があったのかと思いを馳せた。

インドの地面や土中はさぞ土器の破片だらけだろうと思うが、路上から生活から一掃される日がくるのはなんとも寂しいような気がする。